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 27/第弐拾七篇 インサイダー  

■窓から見た外景
 目隠しを外したアル・パチーノが、カーテンを開ける。一瞬ハレーションが起こってカーテンの向こうが真っ白になるが、直後に視野が開け、中東の町並みが、アル・パチーノの肩越しに見えてくる。

 カーテンを閉めた室内から、カーテンを開けて室外をとらえようとすれば、ハレーションが起こってしまい、白くなった画面を絞りで調整するには、腕のいいカメラマンでも2、3秒はかかるはずだ。

 ハレーションからどのくらいで画面が回復するのかを見届けることには、非常に緊迫したおもしろさがあり、カーテンを開けて外を見るショットをその映画の中に忍ばせておく作り手は、たいがいの場合、優れた作家と見なすことができる。

 しかし、アル・パチーノが、カーテンを開けるショットで、ハレーションはほんの1秒も起こらない。カーテンを開けた隙間が一瞬真っ白になり、直後に視界が開けてしまうのだ。これは明らかにデジタル処理によるものである。

 カメラマンの技量よりも、デジタル処理で円滑な移行を見せる。これがいいことなのか、否定すべきことなのか。それはどちらでもよいだろう。室内から室外への円滑な移行と、窓の外に拡がる光景の美しさが楽しめるのだから、方法はどうあれ、これは成功といえる。

■嘘の愉しみ
 しかし、このショットは、デジタル処理なら絞りの調整に時間をかけなくてもいいんだよ、といった意味を持つ程度の性質に納まってはいなかった。

 アル・パチーノとラッセル・クロウが、車の中で会話をするシーンでは、運転席側から、助手席側から、という古典的ともいえるカッティングで両者の表情をとらえているが、それぞれの後方には車の窓外に拡がる外景が見えている。

 アル・パチーノ側からラッセル・クロウを見たショットで後方にあるのは、川と橋である。そこでは、川の上部と空の下部に夕陽がかかってオレンジ色になっている。

 次にアル・パチーノがしゃべり、再びラッセル・クロウのショットに戻るが、そこでの外景は、川のすべてがオレンジ色に染まっている。アル・パチーノのしゃべったショットは数秒だった。数秒のうちに夕陽がそんなに落ちてしまうはずがない。

 これは大嘘なのだ。大自然の時間進行と、映画の時間進行を一致させることなど不可能であり、その上、運転席と助手席の人間を切り返しショットで見せるというのだから、「リアル」という言葉からは、限りなく離れていくしかない。

 しかし、ここに得も言われぬ恍惚をおぼえてしまうのが、映画の魔力というものだ。人間の目では絶対に見ることができない、横に並んだ人間たちの会話を交互に切り返す光景。大自然の時間を「まあ堅いことは言わずに」とばかりに無視してしまう撮影方針。こうした事態を全面的に受け入れたい。

 私たちは、映画を見に来ているのだ。人間の目が本当に見ることのできる視点を再現してもらいたいのでも、刻々と変化する落陽を延々と見続けたいのでもない。嘘だと指摘されても文句が言えない不自然さを、誰も気づかぬような円滑さで押し流してしまう。それを肯定することが、すなわち映画を見ることにつながるのである。

■窓の映画
 窓の外を見つめる人間と窓外の光景。自動車の中で会話する人間と、その後方に見える窓外の光景。前者では、最新のデジタル処理を使い、後者では、伝統的な撮影方法をとっている。その後も窓から見える光景が何度も出てくるが、デジタルよりも光学的な処理が優先されていることがわかる。

 いったんデジタルの画面で気を引いてから、アナログの素晴らしさを見せたかった、というのだろうか。多少はそれもないことはないと思われるが、最初のショットは、作り手側からの宣言であった気がしてならない。これは窓の映画なのだ、と。決して大袈裟に主張することはないが、丹念に窓を撮っているこの姿勢を見てくれ、という意気込みが感じられるのである。

 ジョン・フォードが好んで使ったのは、室内から窓を開け、室内と室外を同一画面に収めるショットだった。フリッツ・ラングは、暴力と殺人を映画の中へ引き込む介在役として窓を活用した。近年では、ロバート・アルトマンが、窓の内側にいる人間と、窓に映る外景を同時に撮影することによって、複数人物が一斉に話し始めるという自作で頻出させる手法よりも、さらに過激な複数の世界を作り上げていた。

 優れた映画作家は、窓と深く関わり合っている。『インサイダー』のマイケル・マンは、志としてはそうした作家の系列に組み入れることができるだろう。だが、それゆえに『インサイダー』のはらんだ問題点が浮上してきてしまうのである。

■物語に敗北した映画
 警備員が配されることになったラッセル・クロウの家を庭側からとらえるショットで、窓の枠内に彼の姿が悲しく見えている。窓の映画は、ここで本格的な逆転を見せる。これまでは、窓から外を見る構図が続いていたわけだが、ここでは外から窓の中を見る構図へと一転してしまうのである。

 妻と子に去られたラッセル・クロウがホテルへと移り、部屋の窓からはB&W社が見える。これだけなら、窓から外を見る構図が繰り返されていることになるのだが、しばらくすると、B&W社の法務部がある部屋だけに電気がついていて、灯かりの点った窓をラッセル・クロウが見つめることになる。

 窓から外を見る→外から窓を見る→窓から、外にある窓の中を見る。逆転した構図が、もう一方の視点を加えることによってさらに複雑なものと化している。窓の映画は、確実に進展しているのだ。

 ところが、肩透かしと思われるかも知れないが、窓の映画はここで終わってしまう。映画のクライマックスは、アル・パチーノの奮闘で一件落着となるが、それはあくまで物語、あるいは説話レベルでの落着でしかない。

 物語や説話に、わずかずつ関わりを持ちながら、窓の映画は進展してきた。ところが、いつの間にか忘れ去られ、物語優位のまま、終了してしまう。どうしてもう一歩詰めなかったのか?

 例えば、正気を失ったラッセル・クロウが、ホテルからB&W社の法務部へハンディ・バズーカ砲を撃ち込んでみれば、幼稚なフリッツ・ラングくらいにはなり得たかも知れない。死を決意したラッセル・クロウがホテルの窓から飛び降りたら、B&W社の法務部へ、窓を突き破って落ちてしまった、なんて形も例としては挙げられよう。

  『インサイダー』は、どうやら事実の映画化であり、上記のような狂った結末には到底できなかったはずである。それならそれで、窓の映画として、何らかの落とし前をつけることができなかったのか? それが悔やまれてならない。物語の威力に屈することなく、いや、物語に従属した素振りを装いながら、涼しい顔で映画を貫徹してしまう。映画作家たりえる特性とは、そんな図太い神経の有無ではないだろうか。

インサイダー THE INSIDER
監督・共同脚本・制作 マイケル・マン
撮影 ダンテ・スピノッティ
音楽 ピーター・バークandリサ・ジェラード
出演 アル・パチーノ、ラッセル・クロウ、クリストダー・ブラマー、ダイアン・ヴェノーラ

 

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 28/第弐拾八篇 地こ上こより何処かへ
■暗闇から生まれる新しい光
 冒頭。画面奥やや左側からこちらへ向かって走ってくる車が、画面右へと走り去ろうとした瞬間、ショットは変わり、画面の手前から右奥へと走っていく車の後ろ姿をとらえる。能力のない作り手なら、パンでお茶を濁したであろうところを、しっかりカメラ位置を変えながら2ショットで収めるのだから、もうこの映画は大丈夫だな、と早くも満足してしまう。

 その後も、ナタリー・ポートマンを置き去りにして、画面のかなた奥へと走り去っていく車や、クレーンで建物の屋根をなめながら道路に降りていく移動ショットなど、ロジャー・ディーキンス担当の撮影は冴えわたる。室外だけではない。むしろ、室内において、その丹念な作業が一層迫ってくる。

 全篇が自然光なのだ。近年、全篇を自然光だけでとらえるなどという芸当ができるのは、ジャン=リュック・ゴダールくらいのものかと思っていたが、ウェイン・ウァンは、それを堂々とやってのける。自然光だけの撮影そのものが困難であるのだが、そこから一歩前進した照明設計を施している点が、さらなる驚きをもたらしている。

 停電のショットがそれだ。夜のシーンにも関わらず、あくまで家庭の照明器具だけで撮影しているのだから、これは何かあるな、と予感してると……停電、になってしまうのだ。画面内のスーザン・サランドンとナタリー・ポートマンの顔はもうほとんど見えなくなる。そりゃそうだ、照明がないのだから。

 しかし、ナタリー・ポートマンは、停電前に座っていた位置から立ち上がって歩き出し、画面手前に来る。そこには外からの黄色い光が差し込んでおり、そのわずかな光でナタリー・ポートマンの顔が浮かび上がるという按配だ。彼女が画面から退場して一人残されたスーザン・サランドンがやり切れないように上半身をそらすと、今度はキッチンの窓から差し込んでくる外からの青い光が彼女をほんのりと浮かび上がらせる。

 映画内において、灯かりが消える事態となっても、完全な暗闇にしてしまうわけにはいかない。たとえ暗闇でも、真っ黒の画面にせず、暗闇を意識させる必要がある。

 それは、殺人を描く場合に、本当に人を殺すわけにはいかないことと同様、映画の不文律なのだ。

 スタンリー・キューブリックは、映画が始まる前に音楽だけ流しながら真っ黒の画面を延々と見せ続けることを好んだが、これは決して映画の本道ではなく、奇抜な手法というにも及ばない、低次元の自分勝手な思い込みでしかない。最近では、映画の暗闇を理解していなかったがゆえに致命的な失敗を犯していた『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のような例もある。
小津安二郎の映画で、驚くべき瞬間は多々あるが、その一つに、灯かりを消した瞬間がある。これから寝よう、みたいなことになって灯かりを消すと、わずかに時間をずらして外から別の光が差し込んでくるのだ。このわずかな時間差は、日常生活では絶対にありえないものであり、それゆえに小津だけに見い出される独特の空間たりえている。

 『地上より何処かで』は、新たな光を投射することによってではなく、人物を移動させることによって新たな光を画面内に導き入れる。移動する位置、照明の方向など、緻密な計算なくしては不可能な、光と闇の饗宴をウェイン・ウァンは、ここで感動的に実現したのである。

■溝口と小津
 ウェイン・ウァンの描いてきた世界は、簡単に系譜作りができるほど一貫しているものではない。テオ・アンゲロプロスがギリシアの現代にこだわり、エドワード・ヤンが台北という都市にこだわる、といった向きとは大きく趣を異にしている。

 出世作の『スラムダンス』では、ハリウッドで展開されるフィルムノワール。6年を経ての『ジョイ・ラック・クラブ』では、中国とアメリカの往還、『スモーク』ではブルックリンで繰り広げられる人情話、『チャイニーズ・ボックス』は、ヴィデオ映像が多用される死への誘い……。どんな脚本でもこなしてやる、といった姿勢なのか。

 『地上より何処かで』は、あまりに押しの強い母親によって束縛されてきた娘が、何とか自立を、と悪戦苦闘するもので、ある意味、溝口健二的な説話構造となっている。それを、小津安二郎を意識する手法によって映像化しているのだから、日本映画の最も良質な伝統を受け継いでいるといってもよいだろう。

 良くも悪しくも、一貫性を欠いたフィルモグラフィが、小津と溝口の世界へと足を踏み入れてしまったなんて、こんな喜ばしいことはあるまい。もちろん、次も小津+溝口路線で行くとはとうてい思えず、ウェイン・ウァンがどのような方向へ変貌を遂げるのか、次回作が来る際には、真っ向から受け止めることができる態勢を整えておきたいものである。

地上より何処かへ ANYWHERE BUT HERE
2000年アメリカ作品
監督 ウェイン・ウァン
脚本 アルビン・サージェント
制作 ローレンス・マーク
撮影 ロジャー・ディーキンズ
出演 スーザン・サンドラ、ナタリー・ポートマン、ボニー・ベテリア


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