日誌

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 39/第参拾九回 ひばり捕物帖 かんざし小判 
■偉大なる名前がもうひとつ
 大河内傳次郎、原節子、エドワード・G・ロビンソン、キャロル・ロンバード。 ことあるごとに、これら偉大なる四つの名前を、映画史上最高の俳優として挙げてきた。
 しかし、最近になって、ここに変動が生じつつある。もしかすると、原節子が除かれるかも知れない。代わりに入ってくるのは、山田五十鈴だ。原節子と山田五十鈴の交替劇に関しては、まだまだ不確定な要素も多く、ここでは述べない。
 より確定的な要因をもって、偉大なる四つの名前に、もう一つの名前が加えられようとしている。それは美空ひばりだ。ひばりの映画は既に十数本は見てきていたのだが、才能と魅力にあふれた女優、といった印象しか持ってこなかった。
 それが、一気に映画史上最高の俳優へと浮上したのは、その時代劇出演作を見てきた本数がこれまで少なすぎたために他ならない。ひばりの映画は、現代青春劇、雪村いずみ、江利チエミとの共演によるミュージカル、そして時代劇と、三種類に大別できよう。

 現代物やミュージカルも、大いに楽しめるのだが、それはまだまだひばりの一面しか見えていないにすぎなかった。時代劇におけるひばりは、正に七変化だ。男で登場したかと思えば、娘になり、歌舞伎役者になったり、尼僧になったり、とこれでもかという具合に姿を変えて登場する。
 それは単にメイクや衣装の変化に留まらない。表情から声までが、がらりと変わり、娘なら娘、チンピラならチンピラとしての魅力がいかんなく発揮されるのである。娘ならとても可愛く、チンピラなら小憎らしくて、しかもカッコいい。


■ひばりの偉大さは天才という程度の言葉では表現不可能
 特筆すべきは、その殺陣である。役柄上、ひばりは三船敏郎などのようなとてつもなく強い侍を演じることはない。せいぜいが男に変装した、いいとこのお嬢さん程度だ。強くはないのだが、動きは華麗で、淀むことなく連続する。ちょっとあごを上げることによって、力みを感じさせる仕草がまた見る者をして手に汗握らせる。
 この映画では、東千代之介が、ひばりを助ける侍として登場し、当然強い設定なのだが、殺陣は絶対にひばりの方が上で、どうしてひばりが助けられる側になるのかと不条理な思いにさえかられてしまう。
 ひばりの魅力を列挙していては、いとまがないが、その最大の魅力として声を挙げることができよう。尼僧として悪者の屋敷に乗り込んだひばりが、正体を見破られ、変装したままいつもの「声」に戻るとき、ひばりの話芸が爆発する。声の変化と口調だけで、映画のクライマックスが形成されてしまうのだ。

 ミュージカルなら、だんぜんフレッド・アステアだ、といった意識があったものの、歌と踊りのいずれをとっても、ひばりはアステアを超えている、と今はっきりと主張できる。それだけではない。ダンスによってにわかに輝き始めるアステアと異なり、ひばりはあらゆるシーンで輝き続けるのだ。物がまったく違う。
 天才と呼ばれる美空ひばりだが、天才という言葉で片付けてしまっては、とてもひばりの偉大さを形容することはできない。美空ひばりの偉大さを何とかして表現したい。その願いをわずかながらも果たすためにできることとは、大河内傳次郎、原節子、エドワード・G・ロビンソン、キャロル・ロンバードという偉大な名前たちに、美空ひばりの名を列ねるくらいなのだろうか。

 

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 40/第四拾回 ザ・コンテンダー 
■『ハンニバル』どっちが悪魔だ?
 夏になれば、春のことなど、みんな忘れてしまうのだろうが、今年の春、話題になり、それなりの収入をおさめたのが『ハンニバル』。この「映画日誌」では、『ハンニバル』について言及しなかったが、個人的にはごく一部の人たちに、「おもしろすぎることが『ハンニバル』最大の欠点だ」と主張しておいた。
 「おもしろすぎる」…それは、実のところ詭弁でしかない。本当に「おもしろい」映画であるならば、それを欠点として指摘することなどあり得ないからだ。おもしろすぎて困るのは、正義の味方が悪者をやっつける構図に似た図式が愚かしいまでに貫かれ、登場人物の性格設定に何の疑問もさしはさまれないまま、起伏なき平面性に堕しているため、とでも言っておこうか。

 ハンニバル・レクター教授にやっつけられるのは、みんな実に嫌な奴ばかりで、やり方はどうあれ、嫌な奴をやっつけるのだから、レクター教授はとってもいい人、すなわち正義の味方みたいに思えてくる。前作にあたる『羊たちの沈黙』は、『ハンニバル』より明らかに劣る映画ではあるものの、レクター教授の真意がどうしてもつかめない、という心理的緊迫感が大きな魅力となっていた。
 その魅力を、『ハンニバル』はあっさり捨てた。同じリドリー・スコットの映画で言うならば、レクター教授は、エイリアンに対するリプリー(『エイリアン』)、タイレル社長に対するデッカード(『ブレードランナー』)、佐藤に対するニック(『ブラック・レイン』)、ローマ皇帝に対するマキシマス(『グラディエーター』)などと同様、明確な敵に挑み、これを倒す、単なるヒーローでしかない。


■優れた演技と嫌悪感の対決
 ハンニバル・レクター教授を演じるアンソニー・ホプキンスは、特異なキャラクターに対する個人的な見解を求めんとするマスコミのインタビューに対し、自分の職業は俳優であり、業務として特定の人物を演じたにすぎない、とかわしている。これは、アンソニー・ホプキンスの俳優としての態度表明であるわけだが、ここで決定的になってしまうことは、アンソニー・ホプキンスとは、あくまで「演じる」人でしかない事実である。
 確かにアンソニー・ホプキンスの演技は卓越している。さまざまな人物の演じ分け、感情表現の緻密さなど、俳優としての資質、実力、経験などを存分に備えた稀有の人物といえよう。だが、映画は、そのような優れた俳優に対して、残酷な仕打ちを否まない。それが明確になるのが、『ハンニバル』なのだ。

 『ハンニバル』には、過去レクター教授に顔の皮を剥がれたという富豪が登場する。気色の悪いメークが施され、素顔はまったくわからない。しかし、声の質と目の雰囲気で、確かにどこかで見たことのある俳優だ、ということだけは確信できる。ただし、名前はどうしても出てこない。「そうだったのか!」と驚かされるには、エンドタイトルを待たなければならないのだ。
 この、顔の皮を剥がれた富豪に扮するのは、ゲイリー・オールドマン。なるほど、こいつならこんなメイクでも登場するだろう。逆に、アンソニー・ホプキンスだったら、レクター教授の役は引き受けても、この富豪の役はお断りだろう。表情がメイクに隠され、身動きもろくにできず車椅子に座ったままでは、アンソニー・ホプキンスの演技力はとうてい発揮されないからだ。
 しかし、ゲイリー・オールドマンは、それでいいと言う。金のためか? それは重要だが、ここでは言及しない。ゲイリー・オールドマンは、嫌な奴としての雰囲気、態度、匂いなど、それらをひっくるめた表現としての存在感を十二分に有している。そこにいるだけで敵意や不快感を人に与える奴、それがゲイリー・オールドマンだ。そこには、アンソニー・ホプキンスの備えているような演技力などは存在しない。

 アンソニー・ホプキンスがひたすら演技によって、極めて単純なヒーローへと存在を縮小していくのと反比例し、ただひたすらその存在感によって、とらえどころのない嫌悪感を拡大していくゲイリー・オールドマンは、無様な最期を遂げこそするものの、レクター教授対富豪というお話の領域ではなく映画の次元において、アンソニー・ホプキンスに対して完勝を収めてしまった。「おもしろすぎる」欠点を持つ『ハンニバル』を多少なりとも救ったのは、ゲイリー・オールドマンの存在感だったのである。


■ゲイリー・オールドマンが突きつける謎
 『レオン』のあたりから決定的になりつつあったゲイリー・オールドマンの悪役ぶりは、『ハンニバル』に至ってひとつの頂点を形作った。悪役を極めたのだから、少し方向転換して、善人の役をやろうか、くらいの発想を持つか、あるいは製作者の側から今度は正義の味方をやらせよう、などといった流れになるのだろうが、出演だけでなく製作も兼ねるこの『ザ・コンテンダー』にて、ゲイリー・オールドマンは、その流れをみずから食い止め、悪役としてさらなる進化を試みている。
 事実、『ザ・コンテンダー』におけるゲイリー・オールドマンは、映画の中でひときわ異彩を放っている。もちろん、いい意味ではない。女性副大統領の指名をめぐって、大統領以下、実に多くの人物が裏に表に動き回る。誰が敵なのか味方なのか、何を狙っているのか、容易には把握することができず、腹のさぐり合いが展開され、それぞれの人物が意外な胸の内を明かしたり、転向をはかったりと、複数の顔を見せ続ける。

 そうした中、女性副大統領を阻止する側の代表となり、ただ一人、裏表なく徹底した悪役ぶりを発揮するのがゲイリー・オールドマンなのだ。ゲイリー・オールドマンだけは、複数の顔など見せることもなく、徹頭徹尾わかりやすく悪の立場を貫き通す。『ハンニバル』では、とらえどころのない不可解な存在へと踏み込んでいったものの、そんな方向はオカド違いとばかりに、それこそ単純な悪役を目指さんばかりなのだ。
 単純な悪役に徹するゲイリー・オールドマンが何を目論んでいるのか? 今となっては、その意図までもが不可解さを増幅し、説話上の単純さとは相容れない謎の世界が渦巻いていく。謎はそれだけに収まらない。『ザ・コンテンダー』でゲイリー・オールドマンに施されたメイク。『ハンニバル』ほど極端でないにしても、このメイクは、驚嘆に値する。

 素顔のゲイリー・オールドマンから程遠い顔形になっているだけではなく、ジャン=リュック・ゴダールにそっくりのメイクである点が決定的ではないか。両者の輪郭はもともと似ているが、眼鏡をかけ、額から上に禿げ上がった頭髪などは、完全にゴダールを踏襲している。それにしても、なぜゴダール? 疑問は尽きない。
 ゴダール的な風貌を思わせる役者に、エド・ローターがおり、敵側の悪役であるのに、根は善人といった役どころでいい味を出す人なのだが、この人が久しぶりに出演した映画でもあるのが、この『ザ・コンテンダー』なのだ。ジャン=リュック・ゴダールからエド・ローターを経て、そしてゲイリー・オールドマンへ。この路線に何かがある。また新たな謎を突きつけられ、映画のうねりにどっぷりと身を委ねさせられていく。

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