第1位 |
七人の弔 |
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一面に水田が拡がる中を、画面の奥から列車が走ってくる。線路は蛇行し、列車の走行速度は、高速度撮影をしたかのようにゆっくりとしたものだ。
水田という平面、列車、蛇行、眠気を誘うような遅い運行、画面奥からの接近。これらが揃った時点で、冒頭ショットは、完璧なものとなり、以後のショットを見ぬうちに、完全なる満足感を享受した。冒頭のワンショットは、明らかに映画だった。
映画史を振り返って、冒頭のワンショットに満足感をおぼえた映画は、この映画の前に、『列車の到着』のみである。『七人の弔』の冒頭ショットに続くショットが、駅へ到着する列車であることは、決して偶然ではない。
列車の到着をとらえた第二ショットは、画面内での運動や構成要素だけでなく、映画史をも遥かに俯瞰した、周到なる計算の上に構築されたものであった。 |
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第2位 |
アワーミュージック |
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ひたすら続く戦闘シーン。映画史において、戦争映画が、いかに大きな存在であるかを、改めて感じさせられる。しかも、つなぎが絶妙だ。『アワーミュージック』を作った監督が、映画史を通じて史上最高の編集技術を持った人物であることを、映画における常識とは知りつつも、改めて痛感させれる。
『ゴダールの戦争映画特集』と題してもよかろう、この第一部だけで胸の中が沸騰するような高揚感を味わえるが、第三部では、「天国」となり、高揚は、安堵のような幸福へと収束していく。
この映画で描かれる「天国」が、宗教的な意味をも、楽園を連想させる意味をも持つものではないことは明らかだ。「天国」篇の画面に流れる空気に触れるだけで、これは『東風』なのだ、と直感できる。三十年以上の歳月を経ながら、なおも『東風』に通じる空気を画面に漂わせることのできる偉大なる力、そして、それに接していることの幸福。「天国」という題字は、そこに由来する。 |
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第3位 |
チャーリーとチョコレート工場 |
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人の嗜好を知りえても、その原因や理由を探ろうとする行為は不要であろう。そんな思いに強くかられるのが、この映画だ。
登場人物たちが、板状の物体に接しようとする執着ぶりは、こちらが冷静になればなるほど、異様に映る。チョコレートに姿を変えようが、モノリスを連想させようが、とにかく板状でなければならない。板状の物体は、いつしか液体への変化となって、映画に大きな運動をもたらしていく。
余談ながら、この映画は、『蝋人形の館』と双子のようだ。『チャーリーとチョコレート工場』と『蝋人形の館』。これら共鳴する二本の映画が二本立て上映されることにより、一つの作品として真の生を得るのではないか、と思えてしまう。
嗜好の原因や理由を探る行為など不要、と言いながらも、ミスター・ウォンカの父を、本来ならば、クリストファー・リーではなく、ヴィンセント・プライズに演じてほしかったことは、それが公言されているのかなど調べるつもりもないが、作り手の叶わぬ希望だったのではないか、と想像を巡らしてしまう。 |
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第4位 |
不良少年の夢 |
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映画は映画。人生において、映画から学ぶものはない。そんな主張をしていたことが、いかに斜に構えた愚行であったかを思い知らされた。「お前たちは、俺の夢だ。
お前たちに、一つだけ言っておきたいことがある。夢を持て。夢は逃げていかない。
お前たちが、夢から逃げているだけだ」。主人公が最後に放つこの言葉に、「教えられて」しまった。
日常の諸事に押し流されることは多かろう。しかし、「夢」を明確に設定し、それを意識し続ける。それが、言葉を変えれば、希望を実現する手段であり、道だ。
この映画を見た翌日に、『キッズリターン』を見て、夢を設定し、意識することの大切さを改めて思い知らされ、イエス・キリストの誕生日に『34丁目の奇跡』を見て、夢を意識する行為とは、「信じる」ことであると教えられ、年末に『NOEL』を見て、どんな状況にあっても信じることを実践する人がいる、と納得した。昨年は、宗教というものを、初めて理解でき始めた年でもあった。
もちろん、人生における深い啓示にとどまるわけではなく、この映画は、過剰露出と逆光を利用して、画面における白と黒の割合を増やし、あたかも白黒映画であるかのような画面作りをしている点が、非常に戦略的であったことを指摘せぬわけにはいくまい。
露出による白、黒は、その後、雪や波に変化しながら、画面を構成する色を白と黒に限定し、他の色を排除することによって、豊かな色彩を作り上げていく。『シン・シティ』が、電子技術によって、白と黒の映画を目指したこととは逆に、『不良少年の夢』は、光学的処理を駆使して、白と黒の映画を目指す。映画において、どちらがより困難で、かつ歓迎されるべき方向であるかは、両者を目にすれば、歴然となろう。
映画はあくまでもフィルム。最終出力形態としてのフィルムを信じつつ、記録媒体としてのフィルムが持つ特性を生かす。色彩映画が常識化された現代において、『シン・シティ』が、映画の自傷行為であるとするならば、『不良少年の夢』は、映画の再生行為である。 |
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第5位 |
タッチ |
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近年、映画において、決闘の要素が極めて少なくなっている。昨年は、『荒野の七人』の再公開によって、西部劇の味わいを堪能することができたが、実は、その「堪能」はかなり屈折している。『荒野の七人』が製作された時点で、この作り手は、西部劇を作る力を失っているからだ。
西部劇は、決闘を描くもの、というわけではないのだが、西部劇において、決闘は重要な要素だ。『荒野の七人』に、決闘の要素が希薄であることは、現象として当然である。『荒野の七人』を構成する主たる要素は、決闘でなく、戦闘だ。
ここ数年、時代劇が増えた。数年前、アメリカ製の「時代劇」で描かれたのは、戦闘であり、戦争だ。決闘はない。松竹の喜劇映画を基盤としていた作り手の「時代劇」で描かれるのは、抹殺を目的とする乱闘だ。決闘はない。
では、1935年に製作された喜劇としての要素が強い時代劇『丹下左膳餘話 百萬両の壺』に、決闘はないか? いや、この映画には、決闘が、ごく自然な位置に収まっており、金魚釣りの行為などと均衡を欠くことなく幸福に共存をはたしている。
映画の魅力で大きな位置を占める「構図逆構図の切り返し」が成立せしめる決闘。
「時代劇」でも「西部劇」でも、それらが排除、いやその手法自体が忘れ去られている今日、この『タッチ』では、決闘と呼ぶにふさわしい対立が、その反対に深い愛情の交歓が、まさしく構図逆構図の切り返しによって描かれる。 |