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 09/第九篇 スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス 
■物語の構造分析 par ロラン・バルト(笑)
 『スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス』(以下エピソード1と記す)の予告篇には、本当に興奮させられた。いったいこれは何だ、と思わせる生物やら機械やらが続々登場し、それらの正体を知りたいがために、この映画を特集する雑誌を買い漁ったくらいだ。

 世に言う映画評論なるものを一切読まない私だが、エピソード1の情報だけ得られれば十分でありながらも、映画雑誌を手にすれば、自然に評論なる部分にも目がいってしまうのは致し方のないところだろう。
 数十年にも及ぶ歴史を持つ映画雑誌を、何年か振りに購入し、そこにあるエピソード1の評論を少しだけ目にしたところ、映画評論なるものの状況が、映画の誕生以来、ほとんど変化していないことを知り、愕然としたものである。

 何もお話や状況設定、展開などについて、いちいち目くじらを立てることはないだろう。だいたい、潜入と脱出、出合いと別れ、旅立ちと帰還など、あらゆるジャンルの映画に通底する物語の基本構造を有したエピソード1の脚本は、決して優れてはいないけれど、映画史に従順な素振りを見せているだけでも合格ではないか。
 現在、世界中で量産されている映画の基本構造は、ほとんどが共通したものである。『タイタニック』を見ても一目瞭然だ。船への潜入と脱出、主人公の出合いと別れ、イギリスからの旅立ちと数十年を経ての船への帰還。まるっきり基本構造は踏襲されているではないか。

 そこに、枝葉ともいえるわずかな変化を、大げさな技術を駆使して付け加え、世界的な大ヒット作が生まれたのだ。この程度の変化を過大視して、映画史を誤解し続けることは、映画の魅力からできる限り遠ざかろうとする行為でしかない。

■映画の技術とは何か
 エピソード1において注目しなければならないのは、その物語ではなく、物語を語るに当たって駆使されて技術である。実はこれは、どの映画を見る場合においても重要な問題なのだが、その点については今回は述べない。

 エピソード1に登場する、いくつかの惑星、そして無数のクリーチャーたち。こうしたものを、デジタル技術が可能にしたことは、それこそ無数の報道により、明らかだ。
 重量感あふれる宇宙船の機体、地球とは違った世界、そして生命を吹き込まれたクリーチャーたち。特に、人間とクリーチャーたちが「共演」するシーンが映画の大半を占め、驚異の『キング・コング』やレイ・ハリーハウゼンものを経ながら、現代のデジタル全盛時代においても、彼らの精神がしっかり受け継がれていることを知ることができるのは、喜ばしいかぎりだ。

 見たこともないものを具現化する。これを最先端のデジタル技術が可能にしたわけだが、映画の技術とは、実はこうした面とは性質を異にしている。ジョージ・ルーカスの陥った誤りとは、この点をまったく理解していないことなのだ。
 映画の技術とは、世界をいかにフィルムへと定着させるかに尽きている。その世界とは、現存するものであっても、存在しないものであっても変わりはない。生きている俳優をとらえることよりも、エイリアンをとらえることの方が偉いわけでは決してない。

 どうとらえるか。これが問題なのだ。ここで本連載の第3回『ガメラ3 邪神覚醒』で書いた部分を引用してみよう。

 <黒澤にしては珍しい傑作『隠し砦の三悪人』で、馬に乗った三船敏郎が刀を構えたまま相手を追跡する場面がある。許しがたい、と何度でも書くが、疾走する馬をとらえるため、カメラを左から右へ振る「パン」という技法を使っているのだ。
 黒澤はかつて、ジョン・フォードの『驛馬車』という、これも人類が到達した最高の映像なのだが、これに対し、カメラが馬と一緒にいつまでも移動していくのは現実的ではない、人間の目はあのように見ることはできない、といったことを発言している。

 映画の神様ジョン・フォードに対して、聞き捨てならない発言だ。人間が見ることのできない芸当を無理矢理やってやろうじゃないか、というのが映画の健全な精神なのであり、あくまで人間の見た目で作れば、それが「現実」的だ、と解釈してしまうところが、正にリアリティの追求なのであって、これが映画とは別種の努力であることは先に述べた。

 猛スピードで走る馬と一緒にカメラを移動させてしまえ、という乱暴な発想に始まり、馬車にカメラを乗せたのでは揺れて撮影できないから、レールを敷いてやれ、ということになって映画の撮影技術が革新され、人類がかつて見ることのできなかった新たな映像が誕生する。>
 エピソード1で、『隠し砦の三悪人』を決定的に模倣しているのは、ポッド・レースのシーンである。ここで、何度かパンを使用し、『隠し砦の三悪人』に似たショットを再現している。ルーカスにしてみれば、黒澤の言う「人間の目が見る現実的なショット」を忠実に目指しているのだろう。

 存在しないものを見せるために、全精力を傾けながらも、それらをとらえる際には、極めて低俗な手法しか駆使しえない。人間の見る限界とは、それがすなわち映画の限界ではなく、人間の限界が生じたところから、映画はスタートするのだ。
 ルーカスにおいて、徹底して欠けているのは、こうした基本的な視点である。彼のこうした愚才がエピソード1の世界を著しく限定する枷(かせ)となる。宇宙空間や砂漠が描かれても、それらは広大と表現されるような空間的拡がりとは無縁である。それどころか、運動をとらえること一つとっても、自ら動くことを禁じ、無駄に不自由な世界を作り出すばかりなのだ。

■アクションの不満
 物事をとらえるショット自体に束縛感の強いこのエピソード1で、素晴らしいアクションを期待することなど、どだい無理なことだった。リーアム・ニーソンとユアン・マクレガーの動きが、何と遅過ぎることか。あの程度の動きでOKだったとは。
アレック・ギネスのオビ=ワンは、動きこそ小さいながら、そこそこのスピードはあった。老優のアレック・ギネスよりアクションが遅くてどうする。

 それに加えてダース・モールのレイ・パーク。こいつがまた遅い。雑誌の紹介を見ると、何やら少林拳やらウーシュー拳なるものの使い手とか。少林拳はともかく、「ウーシュー」って、「武術」の中国語発音ではないか。これはいかがわしい。

 ま、その動きを見れば、偽物でないことはわかるが、あくまであれは表演用の動き。つまり、空手にすれば、組手の試合をせずに、型だけやってる人ということだ。あの程度の動きで、リー・リンチェイ以後のカンフー・アクションを演じられると思ったら、たいへんな間違いである。
 エピソード1はカンフー・アクションではない? もちろん、そうだが、カンフーの要素を取り入れた時点で、これは疑似カンフーなのだから、カンフー側からどう言われようと仕方がない。

 あんな生ぬるい動きを見せられ続けるのだとしたら、エピソード2はとても心配だ。ハリウッドではジェット・リーと名を転じたリー・リンチェイをジェダイ、もしくはシスに起用するなら、以後の展開は大きく変わってくるだろう。
 これはカンフー・アクションに限ることではない。たとえばドロイド軍団とグン・ガン族の合戦シーンで、バスター・キートンの『セブン・チャンス』が再現されるが、これが短か過ぎる。並の肉体をもってしては絶対に再現不可能のキートン・アクションを、新しいテクノロジーで再現するのだったら、それはそれで十二分に満足し得るシーンとなったはずだ。このレベルの映画を引用するのだから、もっともっと長く引用したところで、誰が文句を言うだろうか。

 宮殿への侵入(あるいは帰還というべきか)で、危機一髪に陥ったアミダラのところへ、影武者が駆けつけると、その瞬間女王は椅子に隠してあった銃を取り出し、従者に投げ渡す。明らかにハワード・ホークスの瞬間だ。

 しかし、キートンが短か過ぎたと同様に、ここではあまりに工夫がなさ過ぎる。オリジナルのホークスは、その時点で驚くべき仕掛けを用意していた。

 『赤い河』では、ライフルを手にしたウォルター・ブレナンが、本来なら自分でそのライフルを撃つところを、自分で撃つことなく、わざわざジョン・ウェインに投げ渡している。「ライフル・アクションはデューク(ジョン・ウェインの愛称)の受け持ちだよ、しかし、じいさん(ブレナンのこと)には、投げるくらいのアクションはやってもらおうか」といったホークスの美学が全面に出た、映画史上屈指の感動的なシーンである。
 その発展形である『リオ・ブラボー』は、本当にライフルを投げるショットを発展させてしまった。リッキー・ネルソンがジョン・ウェインにライフルを投げ渡し、そのライフルが宙を待っている瞬間に、ネルソンは腰のコルトを抜いて敵を倒してしまう。

 我々は、こうした胸のすく、といよりは驚異といってよい瞬間を数々目にしてきたのだ。にもかかわらず、それらがまるで存在していなかったのごとく、銃を安易に投げ渡すショットを準備してしまうとは。ストーリーがお子様向けなどということは、映画にとって何ら不名誉なことではない。しかし、アクションが、それをとらえるショットが、映画史を無視したものであることは、徹底的に糾弾されてしかるべきものなのである。

■Feel,don't think……
 最後に、どうしても気になるあの言葉を検討しておかねばならない。クワイ=ガンが、ポッドレースに赴くアナキンに対して口にする「Feel,don't think」である。すでに、いくつかの場でこの言葉に関しては多くの人が言及されているので、ここで私が蒸し返す必要はあるまい。要は、ブルース・リーの言葉をここで、不謹慎に使ったのか、あるいはブルース・リーへの畏敬を込めて使ったのか、という点にある。
 いくら何でも「Feel,don't think」だなんて……、と最初は思ったものだが、次第に考えが変化し始めた。これはもはや極意文や要訣の一種として認められた言葉なのだろう、と。

 中国武術での極意「明・暗・化」や「気・精・神」における「化」と「神」の領域であるこの「考えるな、感じるんだ」は、「感じる」という言葉によって、皮膚感覚の重視と誤解されやすいが、説明するまでもなく、これは五感を駆使せよ、との意味である。
 思考や偏った感覚(たとえば視覚に頼るといったこと)を使っていたのでは、相手の動きに対応することはできない。相手の動きに自分の体が反応し、決定打が打ち込まれるとき、そこに思考は介在しない。無の状態から攻撃が発せられている。

 この概念を、よりわかりやすく表現したブルース・リーの言葉は、今や全世界に認められた極意文なのだ。ジェダイという騎士が使う言葉として、それを引用されるのは、むしろブルース・リー思想や中国武術の思想がより一般化されたものとして歓迎したい。

 ただし、この言葉を見聞きすることで、無の状態からの自由な攻撃を発することができるようになると思われたら大間違いだ。極意文とは、長い長い修行を積んだ者だけが理解できるものであり、それを読んで極意が身につくといった性質のものではないことを、肝に命じておかなければならない。

     
  スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス STAR WARS:EPISODE I THE PHANTOM MENACE
1999年 アメリカ
製作総指揮:イアン マクダーミ
監督:ジョージ・ルーカス
脚本:ジョージ・ルーカス
撮影:デヴィッド・タッターソル
音楽:ジョン・ウィリアムス
出演者:リーアム・ニーソン 、ユアン・マクレガー 、ナタリー・ポートマン 、ジェイク・ロイド 、サミュエル・L.ジャクソン 、レイ・パーク
 

 

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 10/第拾篇 稲妻  
■映画史上最高の作家とは誰か
 個人的に作っている「映画史上のベスト100」というリストがある。

 自分が見た映画の中から、これぞ、と思うものを、ジャンル、国籍、年代など、あらゆる枠組みを取り払って選んだ作品群である。

 その中には、ある映画作家の作品が集中してしまうケースも多い。最も多くの作品が選出されているのは、ジョン・フォード。6本が選ばれており、その内訳は『3悪人』『プリースト判事』『肉弾鬼中隊』『俺は善人だ』『周遊する蒸気船』『驛馬車』という強力無比の顔ぶれである。

 単純に考えると、いちばん多くの作品が選ばれているジョン・フォードが、自分の中では最高ということになるわけか。しかし、ジョン・フォードが最高だなんて、自分で言うのは、あまりにもおこがまし過ぎよう。ジョン・フォードを最高と言えるのは、淀川長治氏レベルになって初めて可能になることだ。

 ジョン・フォードはさておき、その6本に続く、5本の作家が2人いる。ジャン=リュック・ゴダールと成瀬巳喜男だ。

 ゴダールはともかく、成瀬が5本とは、自分でも意外だった。世界的に見て第二位、日本だけに限れば第一位なのだ。伊藤大輔でも山中貞雄でもなく、はたまた小津でも溝口でもなく、成瀬……なのだ。

 その5本とは、サイレントの『腰弁頑張れ』に始まり、戦前では『妻よ薔薇のやうに』『鶴八鶴次郎』、戦後では『おかあさん』『めし』と、そのフィルモグラフィを通して、まんべんなく作品が並んでいる。

 そこには、ここで取り上げる『稲妻』は入っていない。にもかかわらず、『稲妻』は、成瀬におけるまぎれもない傑作であり、成瀬を語る上で決してはずすことのできない映画である。こうしたことから、成瀬巳喜男が、いかに豊かな映画群を生み出してきたかが、明確に理解できるだろう。

■二人の人物が並んで歩く最も幸福な瞬間
 成瀬巳喜男とは、どのような映画を作ってきた作家なのか。そんなことを私が説明する必要はあるまい。成瀬についての文献はいくらでも出ているし、現在(8月6日まで)、三百人劇場において、その代表作がかなり網羅されたレトロスペクティヴが開催されているのだから、そこに足を運んでいただければ、それ以上に成瀬理解の手段はあるまい。

『稲妻』において、最も強烈なのは、その2階である。「監督 小津安二郎」という本の中で、著者の蓮實重彦氏が、小津映画における2階の機能を事細かに述べているが、その通りの世界が『稲妻』に存在しているのだ。階段の不在、女の場所としての2階が、気味悪いくらいに共通している。

 だが、小津になく、成瀬にあるのは、2階という空間の拡張性である。高峰秀子が実家を飛び出して、世田谷で見つけた下宿の窓からは、空と木々を見渡すことができ、隣の庭を見下ろすことができる。それとは逆に、中北千枝子の住む2階は、外から見上げる形でとらえられ、焦燥感たっぷりのイメージを醸し出し、見る者を圧迫する。 

 2階を描いても、そこからの眺めや、外からのショットを使用しなかった小津との決定的な違いがここにある。2階を扱う不気味な共通性の中にも、やはりそれぞれの個性が如実に現われていたわけだ。

 2階の描写以上に、成瀬を決定づける要素は、2人の人物が並んで歩くショットにある。2人が並んで歩くその姿を、カメラはゆっくりと後退しながら、あるいは後ろから2人についていくように追い続ける。

 この2人は、夫婦であったり、恋人同士であったりするわけで、並んで歩くという行為が、成瀬映画における、この2人の愛情がストレートに表現される記号なのだ。

 『稲妻』での2人とは、浦辺粂子と高峰秀子の親子であり、その前のシーンでは、喧嘩をしていた2人だが、ふと母に対して哀れみを感じ、いとおしさを甦らせた高峰秀子が、母を送っていくラストシーンへとつながっていく。

 これこそ、成瀬における最も幸福な瞬間である。登場人物たち同士の愛情、それを見守る成瀬の愛情あふれる視線が、一体となって昂揚し、我々をこの上ない幸福の時へといざなってくれる。

 それは、「あ、成瀬はまたいつものことをやってる」と思わせるような形式に堕した感慨とは決定的に違う。映画の持ち得た感情を凝縮させる、正に特権的と呼んでしかるべき、成瀬映画の崇高なる表現手段なのである。

稲妻(1951年 大映作品)
監督=成瀬巳喜男
脚本=田中澄江
出演=高峰秀子、三浦光子、浦辺粂子、香川京子、小澤榮、他


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