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 11/第拾一篇 永遠と一日 映画の得意技――回想 

 映画が持ち得た技法の一つに、回想シーンとがある
 過去の場面は、本来ならもはや存在していないはずなのだが、映画なら、ある人物が過去のことを話し始め、次のシーンでは時間が過去へと飛んでいる、という形態が可能になる。

 回想へと移行するための契機となるいくつかのパターンがある。過去のことを話し始め他に、老いた主人公が遠くを見つめると、次のシーンから回想となる形も多い。最近では、『タイタニック』や『プライベート・ライアン』などが、それらの例として挙げることができる。

 映画において、回想へと移行するための手段は決して複雑なものではなく、それゆえに映画はそれを有効な技法として自分のものにしてきた。
 ところが、回想のための手順を踏むことなく、現在のセットやロケ地のまま、過去のシーンが始まってしまう事態が生じることがある。 これは失敗によるものではない。むしろ、映画の典型的な手順を踏まずに回想へ移行するための、より戦略的な試みなのだ。

 テオ・アンゲロプロスは、それを得意とし、最新作の『永遠と一日』においても多用している。
 癌に犯され余命いくばくもない主人公が、窓の外に目をやると、カメラがベランダへと出てゆき、そこには亡くなった妻が、若いままの姿で立っているという按配だ。

 そこから、完全に過去へと変わってしまうのなら、まだわかりやすいのだろうが、アンゲロプロスは、過去であるべきシーンに、現在の主人公を入り込ませてしまう。

■不安の構造
 これをどう解釈するかは、見る者の自由だ。
 ただ、それを目にするときに抱かざるを得ない奇妙なイメージを、これがアンゲロプロスの手法なのだ、と納得して慣れてしまうことなく、大切に守り続けていくことが、映画と長く付き合っていくうえでの重要な鍵となる。

 人が映画と接する場合、映画を成立させているいくつもの文法を意識することは稀である。むしろ、そんなことを、まったく意識させないくらいの方が優れた映画ともいえる。
 しかし、映画を円滑に機能させることなく、その文法を逆に意識させることによって、映画自身の輪郭を一層際立たせる効果を発揮させる側にいる作者たちも存在する。その最右翼が、ジャン=リュック・ゴダールであり、アンゲロプロスも明らかにその側の人間だ。

 決して約束事に安住させることなく、常に不安を強いてやまないその作品構造は、映画に対して人々が忘れがちである懐疑の念を呼び起こさせるに十分である。映画とは、そうやすやすとは親しむことができるものではない。
 常に厳寒のイメージを醸し出しながら堅固に存在し続ける、アンゲロプロス映画における国境と同様、映画と人との間にある深い溝など、たやすく埋めることのできないものなのだ。

 アンゲロプロスから「何か」を読む場合、国家や民族などの問題以上に、映画と人の関係性こそを強く意識しなければならない。

     
  永遠と一日 Mai Eoniotita Ke Mia Mera / 1998年 ギリシア/フランス
製作:テオ・アンゲロプロス 、フィービー エコノモプロス
脚本:テオ・アンゲロプロス 、トニーノ グエッラ 、ペドロス マーカリス 、ジョルジョ シルバジーニ
監督:テオ・アンゲロプロス
出演者:ブルーノ・ガンツ 、イザベル・ルノー 、アキレアス スケヴィス 、デスビナ ベベデリ 、イリス ハジアントニウ
 

 

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 12/第拾二篇 和製喧嘩友達 
■映画にふられた日
 「リニューアルカラー デジタルサウンドバージョン」とは、実に長いサブタイトルだ。上映時間が4時間近い正に超大作、いや超映画と呼ぶべき『風と共に去りぬ』が、12分の欠落シーンを付け加え、色を復元し、さらには音をデジタルに変えて上映されるというのだから、これは見ないわけにいかない。とにかく12分の欠落していたシーンというのが気になる。といっても、3時間54分の映画で、たった12分がどの場面だったかなど確認すらできないのだろうが。

 とにかく、『風と共に去りぬ』を見るため、11月3日の文化の日、上映館のスバル座がある有楽町へと向かった。まずは銀座で優雅なモーニングといこう。デパートの開店を待ち、食品売り場でサンドイッチも購入しなければ。何しろ、4時間近い映画なのだ。途中の休憩時間に食料を補給しなければならない。スバル座近くの有楽町そごうへと向かいながら、上映開始時間をもう一度確認するため、スバル座の窓口を覗く。

 そこにはなぜか人だかりが。何かの間違いだろう。立ち止まってよく見ると、「立見」の札が出ている。まだ上映開始の1時間以上も前だ。きのうの札が出たままなのだろうか。

 何かの間違いであることを確信しつつもう1度見ると、「本日は映画ファン感謝デー」の看板が。やっと事の次第が明らかになった。今日は入場料が1000円均一、しかも祝日とあっては、人が集中して当然。こっちは2000円の前売券を既に買ってあるというのに。2倍の金額を払った人間が、見ることができないとは、何が「映画ファン感謝デー」だ。

 金さえ払えば映画を見ることができるというわけではない。そんな経験は何度も味わってきたが、既に支払った2000円が無駄になるのだから、今回のダメージは大きい。映画からふられることはままあるものの、こんなひどいふられ方は珍しい。

 重要なのは、ここですぐに作戦を変更できるか否かである。まずは午後1時からのフィルムセンター行きを決定。だが、それまでにまだ3時間ある。何とか映画を1本、と日比谷シャンテ、日比谷映画、みゆき座から、丸ノ内東映、シャンゼリゼ、シネスイッチ銀座、そして銀座シネパトスまで、日比谷から銀座界隈の映画館をすべて(ただし、マリオンは除外している。これについては説明の必要はあるまい)当たってみたが、既に新宿東急で見ている『ディープ・ブルー』以外は時間がうまく合わない。

 いっそのこと、『ディープ・ブルー』をもう1度見てやろうかとまで思うが、それはあまりに屈辱的であり、フィルムセンターには早めに着いている方が得策なので、『ディープ・ブルー』はやめにして、八重洲ブックセンターへ回り、フィルムセンターでの待ち時間用に読む本を購入する。

■ここでも行列
 フィルムセンターの向かいにあるドトールでコーヒーを買い込み、フィルムセンターへ入ると、上映1時間前で早くも行列が。行列は地下へと伸びており、まだ続くのかと思いながら、ひたすら階段を下りていく。列の最後尾には、何やら見たことのあるブロンドの女性が。東大総長がフランス人の夫人と連れ立って、行列の最後尾についていたのだ。こんな人の後につくとは、何と濃い状況なのだろう。
 
実は、この時点で、私はこの回の上映作品を知らない。東大総長夫妻がわざわざ並んでいるということは、よほどの映画を上映するのだろう。列が動き始め、入場料(フィルムセンターは一般で410円!)を支払ってロビーへ入り、本日のメニューを見て納得。何と小津安二郎の現存する最古に近い作品を3本も上映するのだ。

 その3本とは、まずは『大学は出たけれど』。これは、小津の回顧上映や特集で何度か見てきた。ただし、今回は通常出回っている16ミリ版でなく、35ミリである点が貴重。同様に次の『突貫小僧』も35ミリ版。青木富夫の突貫小僧が、坂本武を相手にハーポ・マルクス顔負けの破壊活動を行うシーンは、ただひたすら圧倒させられるばかりだ。

 最後は『和製喧嘩友達』。近年になって復元されたもので、一般の上映は、これが最初なのだろうか。本来は1時間くらいある作品を、10数分に短縮したダイジェスト版であるが、小津の力は十二分に発揮されているのがはっきり伝わってくる。朝御飯作りに始まり(鍋のふたで卵を割るショットが、後のシーンでもう1度繰り返され、まったく別の意味に変化する)、交通事故、ヒロインの登場、黒塗りから白塗へのヒロインの変身、恋のさや当て、そして失恋までが、ロケとセットを行き来しながら、流麗という他はないカッティングで構成されていく。こうした仕事があるからこそ、晩年の諸作品が、より重要なものとして実感できるようになるのだ。

■ジョン・フォードと黒澤でなく、フォードと小津こそ親近関係にある事実こそが映画史なのだ
 結婚するヒロインの門出を祝うべく、「喧嘩友達」の渡辺篤と相棒は、旅立つ夫婦を送る。そこで登場するのが、彼らの商売道具であるトラックだ。このトラックが事故を起こして、ヒロインとの出会いに導くわけだが、出会いの道具としてのトラックが、今度は別れの道具へと変化し、最後のエモーションを強烈に昂揚させる。

 猛烈なスピードで走る列車をトラックが追いかけ追いつき、列車と並んで走る。トラックに気づいたヒロインが窓から手を振る。列車からトラックを見るショットとトラックから列車を見るショットが交互につながれる。列車とトラックは共に踏み切りへと近づき、遮断機によってトラックは止められ、列車はそのまま走り去っていく。

 列車と車の並走は、ヴィム・ヴェンダースの『さすらい』で、この上なく感動的なラストシーンとして機能し、新たな映画史の誕生すら思わせていた。しかし、そこから遥かに40年以上も前、小津はよりダイナミックな手法で列車と車の並走を実現していたのだ。ここでのトラックは、列車に劣らぬ迫力で走る。まるで駅馬車を襲うために追随するインディアンのようではないか。

 黒澤明という監督は、自らジョン・フォードを意識していることを口にしていたが、その作品群のどこに『駅馬車』に匹敵するような馬が描かれていただろうか。『駅馬車』の馬は、実は『駅馬車』が製作された10年前に、日本という国で実現されていたのである。それを成し遂げたのは、「日本的な」「家庭的な」「静かな」といった形容で語られることの多い小津安二郎であったこの事実こそ、真の映画史に他ならない。

和製喧嘩友達(1929年 松竹大船作品)
監督=小津安二郎
脚本=野田高悟
主演=渡辺篤、浪花友子


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