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 17/第拾七篇 ブレア・ウィッチ・プロジェクト 危険な罠を回避すること 

 あの森には果たして何がいたのか?
 魔女か?
 最初の一人はどこへ消えたのか?

 こうした疑問を真剣に詮索することは、まことに愚かな行為である。それは、作り手の、というより映画から離れた外的要素による罠にはまることだからだ。

 手持ちカメラの揺れ、視界の悪い闇、和田誠がそのままのタイトルで映画を作ってしまった「怖がる人々」……。画面が恐怖を喚起するこれらの要素こそが、映画の核をなすものである。画面に映っていない存在や行動を予測して感情を左右することは、映画の核から遠く離れ、結局は映画を見ないことへとつながっていく。

 見せるべきものを見せない。この姿勢は大いに歓迎すべき、映画の本質にもつながるものである。通常「省略」と称され、山中貞雄など、映画史の持ち得た数少ない天才たちが得意技としてきたこの手法だが、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』において、それが使用されていたとは誰も思わないはずだ。

 発見されたフィルムを粗編集したように思わせる作りではあるが、結局は計算された編集が行われている画面において、もはや映画の映画たる技法などは介入してこない。見せるべき「何か」が省略されていたわけではなく、ただ「何も映していない」だけに過ぎないのだ。

 そこで、映画を見ているものが、言いようのない不安感をおぼえるのは、繰り返しになるが、カメラの揺れや暗闇、怖がる人々などによってなのである。海を泳いでいたら、人食い鮫が迫ってきた……という具合に、怖さの対象が本来そこにあるべきなのだが、それが存在しなくても、不安定な画面そのものが恐怖を生み出すことは可能なのだ。

■映画の外と映画の中
 この映画の成功は、恐怖の対象を視覚化することなく、見る者の感情を喚起することができた点にある。だが、それはあくまでアイデアの入口でしかない。そのレベルにおいて、『ライフ・イズ・ビューティフル』や『シックス・センス』など、映画から目をそむけ、外からアイデアを持ち込むことによって一時的に映画の困難を回避してしまった例と、質的に何ら変わりはない。

 アイデアは確かに重要だ。しかし、映画という巨大な環境の中で、一つや二つのアイデアなど、焼け石に水でしかないことは、すでに映画史が証明している。何が映画で何が映画ではないか。どこまでが映画でどこからが映画でなくなるのか。そこを追求し続けていれば、作られた映画は自ずと輝きを放ち始める。

 戦後の小津安二郎が、ありきたりな家庭の結婚話などを中心に、似たような話を何度も映画化しながら、いささかも新鮮味をなくすことなく傑作を輩出し続けたのは、一時的な話題性や流行などに左右されることなく、映画そのものへ取り組むの純粋な姿勢を貫き通したからである。

 小津から遥かに下って現代の優れた映画作家たちを見ても、ゴダール、アンゲロプロス、イーストウッド、ヴェンダースなど、それぞれが映画の核へと挑むがあまり、非常に困難な戦いを展開していることがわかる。映画の外から飛び込んできたダニエル・マリックとエドゥアルド・サンチェスが、今後映画の中へと目を向けていかない限り、映画は彼らに恩寵を与えることはないだろう。

 

 

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 18/第拾八篇 バニラ・フォグ 投げから飛行へのデタラメな発展 

 市場の光景とは少々場違いなイメージのヒロインが、そこで働く人々と親しく会話を交わしながら、彼女の経営するレストランでその日に使う食材を仕入れている。ヒロインは、サラ=ミシェル・ゲラー。『ラストサマー』や『スクリーム2』で、惨殺される嫌味な高校生を演じ、何と先日公開された『クルーエル・インテンション』では、もっとワルな高校生を演じた女優だ。

 ところが、ここに現われたサラ=ミシェル・ゲラーには、そうした負のイメージはまったく見当たらない。多少生意気な感じはあるが、これまでとはまったく別人といった健康感をまきちらしているのだ。その点はまず指摘しておかなければなるまい。

 ふいに市場の働き手がリンゴをサラ=ミシェル・ゲラーに投げ渡す。男がリンゴを投げるショットから、彼女がリンゴを受け取るショットへと、2つのショットが円滑につながれ、何の不自然さもなく、リンゴを投げる行為、飛行するリンゴ、そしてリンゴを受け止める行為が我々の瞳へと伝達される。

 ある動作の途中でショットを切り、次のショットを切られたところの動作から開始するつなぎを「アクションつなぎ」と呼ぶが、ここでの動作とは、リンゴが空中を飛ぶことなのだ。

 この瞬間、九分どおり大丈夫だな、という確信が湧く。映画の持ち得た最も魅力的な運動のひとつである飛行が、これほど簡潔に描かれているのは、かなり強引な言い方をすれば、石井輝男以来ではないか、という気さえしてくる。

 しかも、リンゴから数分と経たないうちに、得体の知れぬ縁結び男が、サラ=ミシェル・ゲラーの買ったカニのつり銭を彼女に投げ渡すのだ。間違いない、これは確信犯である。この映画の作り手は、映画の中で何かを宙に浮かせ、その運動を映画の喚起するエモーションへと直結させようとしているに違いない。

 結論から言ってしまえば、途中、デパート内での紙飛行機のギャグやキスをした二人が宙に浮いてしまうといった珍妙なシーンを経た末、オープニングディナーのシェフという大役を終え、タクシーに乗って帰ろうとするサラ=ミシェル・ゲラーの乗ったタクシーへ、彼女を引き止めようとするレストランの主ショーン・パトリック・フラナリーがデパートの4階から投げた紙飛行機が、まさか窓を開けているとは思えないのだが、確かにタクシーの窓を通り抜けて飛び込み、彼女の膝へ舞い降りてしまうのだ。

 そんな無茶な……と思いたいのは、誰でも同じこと。しかし、このデタラメさが途方もなく幸福な瞬間に思えてしまうことも否定できまい。ショーン・パトリック・フラナリーが、映画の前半で、紙飛行機の飛行原理を科学的に説明するシーンがあるものの、この映画で提示される数々の男女関係に説明がなされることはなく、ただひたすら女と男が結ばれることだけを理由もなく描き続けるだけなのだ。

 ただそばにいるだけで、サラ=ミシェル・ゲラーの作った料理を媚薬に変えてしまう力を持つカニに対して、政府の秘密機関が手をのばしてくることもなく、映画の冒頭に現れる縁結び男の正体を明かすこともなく、カニを我が物にしようと悪意を抱く者が登場することもなく、映画に登場するすべてのカップルが互いに好意を交わすばかりである。

 感情がこう動いて、それが影響してどうなったということでは決してない。離れそうになった二人の心が再び結ばれる。その仲介をするのは、紙飛行機の信じがたい飛行なのだ。作り手が冒頭から小出しにしてきた飛行(小出しとはいえ、それは実に堅実な意匠のもとに作られたものだ)――それが、男女が心を通い合わせる瞬間の視覚化に直結する。幾度となく繰り返されてきた映画の運動が、ストーリー上の感情と交差するこのとき、私たちは映画の幸福を存分にかみしめずにはいられない。

■ダンスと鏡とMGM
サラ=ミシェル・ゲラーは、ダウンタウンにある小さなレストランの経営者にしてシェフ。亡くなった母親を継いだわけだが、彼女の料理はからしきしダメで、お客は母の代から来続けている2組くらい。

 一方、大手デパート内に高級レストランを開店させようとしているのが、ショーン・パトリック・フラナリー。敵対する立場にある男女が恋に落ちてしまうという、誰もが「確かあの映画がそうだったな……」と思う程度のお話だ。設定の陳腐さは、実はこの映画では限りない魅力となっているのだが、その説明はこれから見る人の妨げになるだろうから省略する。

 ただ、ここだけは指摘しなければならない。工事中のレストランに足を踏み入れたサラとショーンは、幻想の中でダンスを始めてしまう。「MGMのセットじゃないぞ」と酷評されたそのフロアは、白と黒のマーブル模様で、二人は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースよろしく、ダンスに耽る。

私ごとき年代の人間がMGMのダンス映画に精通しているはずはなく、それはこの映画の作り手であるマーク・ターロフとてあまり変わりはないはずだ。彼は、ここでMGMミュージカルを再現しようなどとは思っていたのではなかったのだろうが、それにしては無視できない部分がある。

 サラ=ミシェル・ゲラーが前に立ち、その後ろにショーン・パトリック・フラナリーが立ったポジションがとられるのだ。これは、アステアとロジャースが得意としたパターンである。アステア=ロジャースのコンビが全盛期を示したのは、実はMGMではなく、戦前のRKOなのであり、「MGMのセット」と評されたフロアで、アステア=ロジャースのダンスを反復するのは、いささか居心地がよくない気もする。

 しかし、その後に推移する映画史へ目を向ければ、このダンスシーンが、いかに映画史の正統を引き継いでいるかが理解できよう。フレッド・アステアは、1950年代に入り、己の時代が終わったことを自ら示したMGM映画『バンド・ワゴン』において、シド・チャリシーと夜の公園で踊るシーンの中でこのポジションを披露している。

 そのポジションが、約20年の歳月を経たスイスの土地で、ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』におけるイングリッド・カーフェンとペーター・カーンによって再現されていたことは、映画史の重要な経緯であるだけに、私ごときが指摘するのはおこがましいくらいだ。

フレッド・アステアからダニエル・シュミットを経て、再びアメリカの地で、このポジションが再現された事実は、結論めいたことは言えないにしても、感慨深い何かをおぼえずにいられないものがある。さらには、もっと強烈なイメージがこの『バニラ・フォグ』では、喚起されているのだ。

 これもダンスのシーンにて。壁には縦長の細長い鏡が張りめぐらされており、踊る二人の姿が幾重にも鏡に反射されるのだ。『上海からきた女』『燃えよドラゴン』。鏡の間を使った2本の代表作がすぐさま浮かんでくる。

しかし、『バニラ・フォグ』で見せたイメージは、『上海からきた女』よろもむしろ『燃えよドラゴン』に近い。まず、鏡に人の影が映って移動していく。それを追うように、本物の人間が鏡の前を通っていくのだ。この艶めかしさは、オーソン・ウェルズよりも、ロバート・クローズ=ブルース・リーの視覚センスによって生み出されたものである。

 オーソン・ウェルズのような巨大な名前に向かうのではなく、映画においてはより身近な『燃えよドラゴン』から近づいていく。そんな慎ましさを感じてしまうのは、こちらの思い入れが強くなり過ぎたということなのだろうか。


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