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 19/第拾九篇 運動靴と赤い金魚 全力疾走の美しさ 

妹の靴は修理してもらった。あとは八百屋でジャガイモを買えば、おつかいはおしまいだ。主人公のアリは、できるだけ状態の良いジャガイモを探す。この最中、八百屋の脇を盲目のクズ屋が通りかかり、袋に入った修理済の靴を、ゴミと間違えて持っていってしまう。

 ジャガイモを選び、さてこれで仕事は完了だ、と岐路につこうとしたアリは、靴の袋がなくっていることに気づき、愕然とするしかない。こんな状況を見たことがあったな。「江戸は広いし、おまけにクズ屋がばかに多い。十年かかるか二十年かかるか、まるだ敵討ちだ」すかさず、こんなせりふが浮かんでこよう。

 アリは、クズ屋が運んでいったことも知らないのだから、もっと状況は切迫している。クズ屋を探し出して、しかも靴を取り戻すなんて、奇跡が起きなければ不可能だ。家に帰って、当然妹には攻められる。ここから、ジリジリした捜索のドラマが展開されるのか、と思いきや、捜索はわりと簡単に切り上げれられてしまう。

 この兄妹に、時間をかけて靴を捜索している余裕などはないのだ。兄の運動靴を代わりばんこに使用する、という当面の策に出る他はない。妹は学校が終わったら、兄の待つ場所まで全力疾走で帰り、兄のアリは妹から靴を受け取り、自分の学校へと全力疾走で突き進む。

 捜索のドラマは、あっさりと宙に浮き、むしろ全力疾走を中心としながら、妹の走るスピードよりも速く流れる溝に落ちてしまった運動靴を、妹が決死の面持ちで追跡するといった緊迫感絶大なエピソードをからませながら、学校と待ち合わせ場所の往復にさまざまな変奏を施すことによって、走りそのものの映画が加速されていくのだ。

 学校と待ち合わせ場所の往復運動は、アリがマラソン大会に出場することによってクライマックスを迎える。第3位の賞品が運動靴であるという理由のみによって、応募締切を過ぎていたにもかかわらず体育教師を口説き落とし、生活に迫られた日頃の鍛練を生かして校内選抜テストを抜群の成績でクリアしたアリは、大会当日も、その実力をいかんなく発揮する。

 ゴール目指して走るアリ。先頭集団には3、4人が固まっている。彼が果たして念願の3位になれるのか? ここでも緊迫が高まる。それにも増して感動的なのは、特に脈路があるわけでもなく、妹の走るショットがマラソンシーンに挿入されるところだ。

 2人の思いが通じ合い、協力し合うかのように走っている、などという読みをするつもりはない。ここでは、ただ走っているからこそ感動するのだ。映画が言語であることは、このコーナーでもたびたび述べてきたが、映画が世界的に持ち得た偉大な共通言語の一つに、「走る」という運動があることを、この映画はすかさず喚起させてくれる。

 言葉をしゃべることはさして重要ではない。運動や、ショットの連鎖こそが、映画の言語に他ならず、純粋に走ることをとらえ続けるこの映画は、映画への邪な態度からは思い切り遠い無垢な原初の魅力を放っている。大河内傳次郎の走りだけが素晴らしいのではない。名が知られたわけではない子役であるアリ役の男の子の走りは、大河内の走りにまったく劣ることなく、我々を陶酔させるに余りある、正に映画の運動だったのである。

■映画を忘れないこと
 走る運動だけで、存分に満足のいくこの映画であるが、その随所に映画、あるいは映画史への想いがはっきりと刻印されていることがわかる。先に出した「江戸は広いぞ…」のせりふは、『丹下左膳餘話 百萬両の壺』で、何度となく繰り返されるものであり、『運動靴と赤い金魚』の状況設定は、それを踏まえたものであるかにも思えてきてしまう。

 妹の靴を見つけ出すには、奇跡を待つしかなかったのだが、本当に奇跡が起きてしまう。しかし、「それはないだろう」とはとても言えない。冷静に考えれば、あり得ないと片付けてしまえることであっても、奇跡が起きたことを素直に喜ぼうではないか、と思わせる力がそこにはある。

 しかも、奇跡が導く「捜索のドラマ」の結末は、『戦火のかなた』における2つ目のエピソードそのものであり、地獄のような挿話が連続する『戦火のかなた』の中で、例外的な暖かみを持った部分が、半世紀を経たイランで再現されているとは、ここでもまた映画史の妙味を感じさせられずにはいられない。

 映画の持ち得た運動に対する敏感な感性を持ち、それでいて映画史への配慮も忘れない。そんな映画『運動靴と赤い金魚』の作り手は、イランのマジド・マジティ。次回作が、もうすぐ日本にやってくる。これは見逃すわけにいくまい。

 

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 20/第弐拾篇 ストレンジャー・ザン・パラダイス 白さへの志向 
 映画館の中が、やけに明るく感じられる。5度目の鑑賞となった今回、特に感じられたのは、その点であった。高感度フィルムを使ったことにより、空の白さ、建物の白さ、壁の白さなどが必要以上に際立ち、ほとんど白によって画面が埋め尽くされてしまっている。白い画面が続けば、館内が明るくなるのは当然だろう。

 モノクロームの画面において、色を構成するのは、白、黒、灰色となるが、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は、あくまで白を追求し続ける。クリーブランドに近づくに連れ、雪が多くなり、それまでもかなりの領域を侵食していた白が、より過激に自己主張を展開し始める。

 白が増殖していく飽和点は、湖のショットである。「雪で何も見えない」とセリフにもある通り、何も見えない記号としての白が、説話においても納得されているわけだが、このショットは「何も見えない」ことを伝えるには、あまりに過剰な迫力を放っている。

 暗闇としての黒は、やはり何も見えないことの記号であるが、これは日常において体験できるレベルの世界に通じている。日常レベルで理解できてしまうだけに、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のような失敗にも通じやすい。しかし、真っ白で何も見えないという世界は、日常でそう簡単に体験できるものではない。白=雪として、それに挑んだ最近の例が『白 THE WHITE』となる。

 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』でも、湖のショットは、雪と氷による白さなのだが、そこにあるのは雪と氷の白さではなく、ただ純粋な白なのである。映画は、何かを見せるものとして誕生したわけだが、その成長過程においては、見せないことといかに関わるか、という問題にも直面せざるを得なくなる。
それが、物を語る場合においては、省略などの技法となるのであり、ジム・ジャームッシュは、高感度フィルムによって現出した白さを回避することなく、徹底的に押し出すことによって、見せないこととの関わりにひとつの解答を出したのである。

■白さの作家
 ジム・ジャームッシュの描き出した白の世界に、眩暈のような陶酔をおぼえながら、今ひとり、白さを描くことに長けた現代作家を想わずにはいわれない。

 日本では、その変則性がまるで芸術であるかのように誤解されて『木靴の木』がロードショー公開されてしまったエルマンノ・オルミが、その人である。処女作『時は止まりぬ』で描かれた雪は、ジム・ジャームッシュ以上の過激さで我々を打ち、さらには雪から炎の白さへと変化していく展開は、白の変容だけに収束していく絶大な緊迫感をみなぎらせていた。

 余談ながら、『時は止まりぬ』を九段のイタリア文化会館で見たとき、前の席に座っていたのが伊丹十三夫妻であり、伊丹十三氏は亡くなったのだな、と不思議な連想が次々に飛び火していく。

 『時は止まりぬ』に比肩するエルマンノ・オルミ作品が『婚約者』である。これもまた、白の映画だ。砂地を白で描き切ってしまった点からして、エルマンノ・オルミの白に対する志向は決定的といえる。

 ジム・ジャームッシュの映画を見ながら、エルマンノ・オルミへと想いをはせる…

 …何て贅沢な時間なのだろう。

ストレンジャー・ザン・パラダイス (STRANGER THAN PARADISE)
'85・米=西独
モノクロ90分
監督:ジム・ジャームッシュ
キャスト:ジョン・ルーリー、リチャード・エドソン
カンヌ映画祭カメラ・ドール賞


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