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 49/第四十九回 セレンディピティ 
■乾雲坤竜とこけ猿の壺
 偶然に出会った二人が、運命の力とでもいうものに、導かれ、再び出会う。こうした展開は、非常に魅力的なアイデアであると同時に、処理の難しい題材でもある。 現に、この映画は、決定的にその処理を失敗している。スケートリンクの再会シーンは、むしろ大胆に省略すべきだった。処理が難しいのなら、いっそのこと切ってしまう。それは、映画が得意とする手段のはずだ。
 とはいえ、二人が会えそうで会えない、という過程における緊迫感は、存分に楽しめる。それを牽引するのは、3つの小道具だ。
 まず、二人を引き合わせた張本人であるカシミアの手袋。さらに、名前と電話番号を書いた50ドル札。同じく名前と電話番号を書いた本。片方ずつに別れた手袋が、再びセットとなり、お札と本が、巡り巡って主人公たちの手元に戻ってくるという、この過程。これがあれば、映画は成立する。
 本来セットになっているべき2つのものが別れる設定は、もちろん『新版大岡政談』
に描かれた、乾雲坤竜が思い起こされよう。離れ離れになると、「夜泣き」をするというこれら大小の刀を巡って、欲にかられた人間たちを右往左往させれば、たちまち映画は活気を帯びてくる。
 埋蔵金の在り処を記す地図が塗り込められたこけ猿の壺は、『丹下左膳』シリーズの必須アイテムであり、これを我が物にせんと奔走する、あるいは、その価値など知らずに入手してしまう、といった事態に登場人物たちを巻き込めば、血湧き肉躍る活劇が誕生する。
 乾雲坤竜は、カシミアの手袋であり、こけ猿の壺は、お札と本である。こうした、映画史において最も成功した小道具の活用法を、しっかり踏襲しつつ、現代の物語に組み込むことは、今ではシネアストなら知っているはずの『丹下左膳』を知らずに作ったとしても、映画と映画史を「肌でつかんで」いる者にこそ、可能な手腕に他ならない。

■『暴力脱獄』から『スプラッシュ』へ
 脚本通りのセリフなのかどうかはわからないが、ケイト・ベッキンセールがジョン・キューザックに、好きな映画を尋ね、キューザックが『暴力脱獄』と答えるあたりから、映画への直接的なオマージュが開始される。
 古本売りの屋台では、『マディソン郡の橋』の小説を奨められながらも、映画で見たからいい、と言い、運命の彼女と婚約者を、『ゴッドファーザー パート2』は傑作だが、『ゴッドファーザー』なしには生まれなかった、という、いささか苦しい表現で比較するなど、映画の話題は止まらない。
 しかし、タイトルこそ口にされることはないが、最も強くその存在を意識させられるのが、『スプラッシュ』だ。『セレンディピティ』は、『スプラッシュ』でニューヨークに上陸した人魚のダリル・ハンナが買い物に出かけるブルーミングデールを舞台としてスタートし、やはりスケートリンクへも移行する。
 最も強烈なのは、ユージン・レヴィの登場だ。『スプラッシュ』で、「最初は敵、最後は最高の味方」という、映画で最も魅力的な人物設定に則った博士を演じたこの役者が現れたことで、もはや『スプラッシュ』の影は、物質化してしまったといってよい。
 ユージン・レヴィは、単に登場するだけに留まらず、そのキャラクターを存分に発揮して暴走を続け、倉庫の中で記録紙を発見するシーンでは、その太い眉毛からも連想されるグルーチョ・マルクスばりの破壊的コントを見せ、我々を圧倒する。
 『暴力脱獄』から、『スプラッシュ』へ。何と品のいい作品選択なのであろうか。
こんな趣味の良さに加えて、乾雲坤竜やこけ猿の壺に匹敵する小道具を、映画の中で生き生きと活用する。ここまでしているだけに、繰り返すが、スケートリンクでの再会は惜しい。山中貞雄は、省略の天才でもあったが、小道具だけでなく、彼の手法を少しでも発揮できたものなら、『セレンディピティ』は、本年有数の快作になり得たであろう。

 

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 50/第五十回 船を降りたら彼女の島 
■最高の快楽は反復にあり
 主人公の木村佳乃が、防波堤に腰を降ろす。誰もが思うだろう、『東京物語』の笠智衆と東山千栄子と同だ、と。やっぱり、これをやりたかったのだろう。それは、ヴィム・ヴェンダースやアキ・カウリスマキとて、同感のはず。でも、それを実行に移すことは、時代が許してくれなかった。
 しかし、この映画『船を降りたら彼女の島』は、堂々とやってしまった。時効、といったら不適切だが、もうやっていいのだろう。映画史に対して、越えてはいけない一線みたいなものはあったが、もういいと思う。これでいいのだなあ、とむしろ懐かしさをおぼえつつこのショットを受け入れるのだが、それでも、まだこの時点では、ほんの始まりにすぎなかったことが、次第に明らかになってくる。
 防波堤に腰を降ろす仕草は、その後、何度も反復される。こうなると、小津映画に対するオマージュといった域には収まり切れない。回想シーンでも、小学生時代の久里子が、しっかりと同じ仕草を反復する。
 反復は、これだけでにとどまらない。海を見つめる大杉蓮。「ちーがーうよー」という木村佳乃の発声。鈴の音……。大杉蓮が海を見つめるショットなど、単独で、十分に映画として成立しているのだが、それが何度も繰り返し登場することによって、この上ない快さがじわじわと浸透してくるのだ。
海と波と映画
 映画における最大の反復とは、波の運動である。この映画では、海が頻出し、人間を超えた主役であるかのようにスクリーンを覆いながらも、波のイメージはほとんど現れず、むしろ意図的に避けられている。波のリズムに近い、といわれた映画のリズムであるが、最も理解しやすい波そのものを巧妙に排除し?間の動作を中心とした反復が対象とされているのだ。
 映画において、反復は快楽だ。しかし、古来、巨匠たちが紡いできた反復は、観客にそうとは意識させない不可視の領域で、映画の中に塗り込まれていた。例えば、成瀬巳喜男の映画で、男女が並んで歩いたとしても、それを反復として意識し、その反復に快く身を委ねることは、成瀬映画を複数本見てこそ、可能になる。
 だが、『船を降りたら彼女の島』の作り手である磯村一路は、ひとつの作品中で、可視的な領域に限った反復を心がけ、私たちを快楽へといざなうことを成功させた。
複数作品をまたにかけての、あるいは不可視の領域での反復は、もう現代では、困難なのかもしれない。
 映画史という線の中で反復するのではなく、一本の作品という、点(時間軸の決定的な映画に対し、一作品を点とするのは、決してふさわしい表現ではないのだが、あくまで便宜的にそう呼ぶ)において、反復を実行することこそ、現代において選択すべき方法だった。

■過去と現在
 その反復は、防波堤に腰を降ろすにせよ、海を見つめるにせよ、鈴を手にするにせよ、ただ見ているだけで、気持ちがいい。十分に感動的だ。しかし、磯村一路は、そこに新たな時間軸を付け加えた。
 それが回想シーンである。現在の久里子と、過去の久里子が同じ仕草、同じ発声をする、といったことによって、反復はさらに空間が拡大されていく。
 しかも、そこに鈴という小道具が介在し、鈴が過去と現在を結び、さらには捜していた人物の娘、という拡がりまで呼び寄せる。
 反復と、時間の交錯、それらを介する小道具。近年、これほど緊密な構造を持った映画は稀である。
 デジタル技術によって、見たこともない世界を創造するのも一つの表現なのだろう。
しかし、映画が望んでいるのは、同じ運動を反復する程度のことではないのか。もちろん、やみくもに反復すれば映画になるということではない。反復の匙加減が、映画の質を決定づけてしまうからだ。
 そこで、元に戻る。映画とは、波の動きに似ているといわれる。波とは、微妙な変化を伴った反復である。同じショットに見えたとしても、時間を経過した後半部分は、ちがった心情を見る者に投げかけてくる。反復と、時間の経過にともなう微妙な変化。
これらがあればもう、映画の持つ最高の快楽が約束されたも同然なのだ。


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