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 58/第五拾八回 父、帰る
■いかにして水と関わるか?
 水面を映し出した冒頭ショットから、水中ショットへと至る過程を見ながら、水の映画になるな、という予感はあった。
 しかし、水の映画は、映画史において数多く存在し、決して珍しいものではない。
現代に、改めて水の映画を実現する場合、どのような方法をとろうとしているのか?
 少年たちが、飛び込みを行うとき、弟のイワンが一人だけ、飛び込みを拒み続ける。
それが、真の始まりになった。
 12年ぶりに帰ってきた父への反発、父の不可解な行動、そして父へ心を寄せ始める兄の心理など、父子の交流を、激しく、かつ繊細に描いていく過程は、実は伏線にすぎない。数十分という上映時間を維持させるための説話なのだ。
 水へ飛び込むことを拒んだイワンが、旅行へ行く途中、車から降ろされ、一人座っているところに雨が降ってくることで、映画が大きく動く。
 一人取り残された少年に、冷たく降り注ぐ雨。それは通常ならば、あるいは説話上ならば、悲劇的な様相となるだろう。しかし、この映画では、なぜか暖かい。イワンを、雨が優しく包み込んでいるように思えるのだ。
 『父、帰る』という「水の映画」は、「水と人間の関わりを描く映画」なのであり、水を拒むことが悲劇を呼び、水と触れ合うことが、幸福を呼ぶ作用が働いている。

■水に包み込まれる幸福
 父と子の葛藤という説話構造を持ちながらも、この映画を構成する要素は、1970年代から1980年代にかけて、映画が新しい動きを始めた時代の映画群に通じるもので満ちている。
 水へ飛び込む、という行為そのものから始まり、自動車での移動、カメラでの撮影、双眼鏡の使用、ボートを使った島への移動、見張り台のような塔など、ヴィム・ヴェンダースやダニエル・シュミットらの映画に頻出するイメージの数々が、そこにある。
 中でも決定的なのが、ボートに乗ることによって、水面との危うい関わりを続けることだ。そのうねりが、父の遺体が水に沈むことで、完結する。
 父の遺体が沈んでしまった、という悔恨の念は、アンドレイとイワンの兄弟には起きたことだろう。しかし、映画を見ている人間に、その感情はない。むしろ、幸福を感じる。
 ゆっくりと水に沈んでいく父の姿には、イワンを優しく包み込んだ雨のように、やはり優しい水に包まれていく、という、むしろ安堵が感じられるのだ。
 父が、兄弟をどのように教育しようとしていたかは定かではないが、たとえ死したとはいえ、水に沈んでいくその姿は、己の役目を全うしたかのような達成感すら伝わってくる。
 いや、生きていれば水に沈んだらたいへんだが、遺体であるからこそ、水に沈むことへの抵抗がなくなっている。極めて周到に計算されたシーンであったわけだ。
 水に包まれることによって得られる幸福。それは、現実のものではない。この映画が、水の映画であるからこそ、実現された、映画と観客による感情の交流なのである。

 

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 59/第五拾九回 エイリアンVSプレデター
 プレデターが弱すぎる。あれだけの装備を有していながら、エイリアンにやられてしまうのは、体力、知力などが根本的な低いからではないか。人類に文明を与えたなんて設定は、とんでもない。
 そこで、プレデターを論外として、エイリアンと戦わせるにふさわしい、映画の登場人物・怪物たちを挙げてみた。


■エイリアンVSダース・ベイダー
 非常に興味深い対戦が期待できる。ダース・ベイダーは、強大なる「フォース」を操るとはいえ、あくまで生身。鉄兜や仮面、胸の生命維持装置なども、エイリアンの体液を浴びれば、溶かされてしまうことだろう。常に危険な状況にさらされて、緊迫感は高まる。
 ダース・ベイダーの身体能力からして、エイリアンの動きに優るスピードで先手をとり、ライトセーバーでことごとく斬りまくることになるだろう。ライトセーバーで斬れば、体液は凝固して飛び散らないだろうから、これを浴びる危険は少ない。
 エイリアン側も、下手に攻撃をかけられなくなるため、後半は知力を駆使した戦いとなるだろうが、この展開になれば、ダース・ベイダーは、ますます有利になり、鮮やかな知略を講じて、エイリアン軍団を一網打尽にすることだろう。
 ラストシーンは、ストーム・トルーパーなど及びもつかぬ凶悪さと強さを持ったエイリアン軍団を配下に従えたダース・ベイダーが、宇宙征服に打って出る、ということで、結末まで決まってしまった。

■エイリアンVSゴジラ
 これは勝負にならない。エイリアンの鋭い牙、爪、触覚などをもってしても、水爆の放射能に耐えたゴジラの皮膚を貫くことは不可能と思われる。酸の体液もまたしかり。
 逆に、ゴジラの放射能火炎が、エイリアンを一瞬にして焼き尽くしてしまう。エイリアンとゴジラの優劣を語っているのではなく、そもそもの設定が違っているがゆえに、勝負にならないと判断したまでのことだ。
 とにかく、両者の設定を生かしたままでは、映画として成立しないだろう。

■エイリアンVSガメラ
 それでは、ガメラならどうか? 実は、これはゴジラと反対の意味で勝負にならない。いくら60メートルの巨体であるとはいえ、ガメラも人間と同様、あくまで生身。甲羅以外は、非常に脆い。バイラスの頭で腹部を串刺しにされていたほどだから、斬る、突くといった物理的な攻撃に耐えられないことはもちろん、酸の体液は致命的となるはずだ。
 小さいレギオンに群がられたごとく、無数のエイリアンに甲羅以外の部分を覆い尽くされ、わずかずつ蝕まれていく、非常に残酷なシーンが生まれるだろう。その上、ガメラの巨体は、エイリアンの巣として利用され、一層陰惨な図へと化していく。さらには、ガメラの肉体を栄養にして育った、亀形のエイリアンが続々と生まれるなんて、実におぞましいものではないか。
 1960年代から1970年代に隆盛を誇った時代の地球怪獣が、ほとんどガメラに準じている。ゴジラという存在が、いかに特異なものであるかが、改めて思い知らされよう。
じゃあ、ヘドラはどうなる? ということも考えられるが、負けることはないにしても、勝つ手だても想像しがたく、あまり楽しめる戦いにはなりそうにない。

■エイリアンVSハルク
 ハルクは強い。あらゆる外傷に対して、自己再生能力がある皮膚を持つハルクだけに、エイリアンの攻撃で、いったんは傷ついても、すぐに復活してしまう。これでは、さすがのエイリアンとて、なす術がない。万策尽きたエイリアンが、ハルクの怪力によって、それこそ、ちぎっては投げ、という状態へと追いやられよう。

■エイリアンVSスパイダーマン
 スパイダーマンは、ダース・ベイダーよりも、さらに人間に近い存在だ。身体能力は極めて高く、エイリアンの攻撃をことごとくかわすことは可能だと思う。要は、いかにして反撃に転じるか。エイリアンを倒す武器を体内に有していないことは決定的に不利だ。頭脳的な戦略を用いて状況を利用できるか否かが勝敗の分かれ目になろう。

■エイリアンVSアーノルド・シュワルツェネッガー
 プレデターを倒した『コマンドー』を想定するなら、やはりプレデターに勝利している戦績からして、有力な候補として挙げることができるだろう。しかし、しょせんは生身。エイリアンの生態が、人間という生命体に対して、徹底的に害悪となっている設定がある限り、じゃんけんではないが、シュワルツェネッガーはプレデターに勝てても、エイリアンには勝てない。百歩譲って、腕力で対抗できたとしても、スピードでは絶対に及ばない。

■エイリアンVSクリント・イーストウッド
 俳優が出たことで、もう一人。アーノルド・シュワルツェネッガーが勝てないのに、体格で劣り、しかも今や高齢となったクリント・イーストウッドが、どうしてエイリアンに対抗できるのか? 最初から問題にならないように思われるかもしれないが、それはちがう。
 クリント・イーストウッドの映画では、怒りによるエネルギーが、すべてのものを薙ぎ倒す。それが、倫理的に善であるか悪であるかは、問題ではない。怒りが頂点に達した者が、その対象を追い詰め、抹殺せずにはいられない状況が、クリント・イーストウッドの映画では、現出し、絶対的に肯定される。
 最新作の『ミスティック・リバー』において、ショーン・ペンが、ティム・ロビンスを殺害することは、善悪を超えた、怒りの結末なのであり、クリント・イーストウッド映画においては、当然の帰結をなしている。もちろん、クリント・イーストウッド自身が、それまでの監督・主演作において、すさまじい怒りの発露として、殺しを繰り返してきた。
 クリント・イーストウッド映画における、怒りの発露による殺しが絶対的に肯定されることは、映画史の厳然たる事実である。これはむしろ原理であり、それを無視してクリント・イーストウッド映画を考えることはできない。
 怒りの対象がエイリアンであっても、原理を破ることはできない。原理を破ることは、クリント・イーストウッドの中で「許されざる」行為なのだ。
 クリント・イーストウッドが、エイリアンに対するすさまじい怒りの感情を爆発させたとき、その手段はどうあれ、エイリアンは葬られざるを得ない。むしろ、どのような手段がとられるかが予測できないだけに、最高の黄金カードとなり得る可能性が高い。

■エイリアンVSナウシカ
 近年の傾向からいって、『マトリックス』あたりを考えてみようかと思ったが、仮想の世界が対象では、仮説も成立しにくい。ということで、『マトリックス レボリューションズ』の結末から、ナウシカを想起してみた。
 ナウシカも、スパイダーマン同様、その素速い身のこなしで、エイリアンの攻撃をことごとくかわすことができるだろう。武器による攻撃術にも長けているので、ある程度の数までは、ナウシカ一人で勝てるのではないかと思われる。
 しかし、複数にはやはり不利だ。切り傷、刺し傷などの外傷は免れまい。ナウシカが強くなるのは、そこからだ。ナウシカの危機を察知して、怒りに燃えた王蟲の大群が襲ってくることだろう。あの前進力と鋭い触覚で、エイリアンといえども蹴散らされてしまうにちがいない。
 傷ついたナウシカがエイリアンに囲まれ、絶体絶命となっているところへ、遥かかなたから、王蟲の大群が救出に駆けつける。「グリフィス最後の救出」と呼ばれた、映画において最も興奮度の高い手法を用いたクライマックスシーンが展開されることだろう。非常に高度な映画に仕上がりそうだ。

■エイリアンVSインクレディブル家
 これも強い。ミスターインクレディブルは、腕力だけでエイリアンをねじ伏せてしまうであろうし、夫人はその伸縮力で、エイリアンの攻撃をかわしながら、包み込んでしまうことも可能かもしれない。
 娘のバリアーがあるだけでも、彼らの安全度は非常に高く、息子の走るスピードなら、エイリアンとて追いつけない。最後の手段として、息子が全員を連れて逃げる、という手だってある。たいへんな家族を創案されたものだ。

■エイリアンVSジョン・ウェイン
 やっぱり生身の人間に勝ってほしい、ということでもう一人。ブルース・リーの登場以前、世界最強は、ジョン・ウェインであった。この人も検討すべきだろう。
 単独での勝利は、まず不可能。スピードが遅いから。そこで、チームの戦いになる。
『黄色いリボン』や『騎兵隊』など、軍隊を率いれば勝率が上がるとは思えず、むしろ『リオ・ブラボー』のような、各人の個性を生かした少人数制が望ましい。
 できるだけ距離をとって、ウォルター・ブレナンがダイナマイトを投げ、それをジョン・ウェインとディーン・マーチンが狙い撃ちする。リッキー・ネルソンなら、陽動作戦もできる。ダイナマイトには何かの血でも塗っておけば、エイリアンがくわえて
くれるだろうか? そのへんの戦略が必要になろう。まずは、バーディット一家を襲わせ、そこからエイリアンの生態を知る、という作業が先決か。
 冷静に考えて、これは実現しにくい。大群に襲われたら、まず太刀打ちできないだろう。人類において、最強と思われる人物でも、基本的に難しいのだ。繰り返すが、エイリアンの設定自体が、人類では歯が立たない生態とされているのだから。
 言いたくないが、ブルース・リーでも極めて困難。対エイリアン用の特殊兵器でも持てば別だが、あくまで映画の設定で考慮するなら、肉体やヌンチャクなどの武器で戦うブルース・リーとて、勝ち目はない。身の回りの日用品を武器化できるジャッキー・チェンもまたしかり。時代劇の侍たちでも、武器が刃物では、前提からして成立しない。


 以上、他にもいろいろ考えられるだろうが、キリがないので、10の対戦カードに収めてみた。純粋に映画として、最も面白くなるのは、VSクリント・イーストウッド、戦略性の面白みが発揮されるのはVSダース・ベイダー、緊迫感としてはVSナウシカ、肉弾戦の追求ならVSハルクといったところに落ち着くだろうか。『エイリアンVSプレデター』は、決して優れた映画ではないのだが、このように、他の映画を企画させるという点においては、貴重な存在なのである。

 

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