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 特別篇01/特別編 タイの映画館は最高だ 

 格闘技王国タイ……、というならば納得できるのだろうが、映画王国タイでは、ピンと来ないに違いあるまい。確かに、アメリカが非常に屈折した方法ながら、まがりなりにも映画産業を席巻している状況に比べれば、産業としてのタイ映画は、むしろ「映画のない国」と呼ばれても致し方のレベルに近い。近隣に位置するインドが、依然として映画の隆盛を誇っている状況へ目をやると、あまりの違いに驚かされよう。

 しかし、この文は、タイの映画産業について述べる性質のものではない。タイにおける映画の興行。それを享受する快楽を、無責任に列挙するだけのものである。

 タイの映画料金は、多くのところで100バーツ。日本円にして、300円強といったところだ。日本のロードショー料金が1800円なのだから、この金額がいかに魅力的なものであるかは論を待たない。

 かとって、映画館が古い、汚い、小さい……などということはない。大きいところでは、サイアムやスカラなどの1000人超クラスから、いわゆるマルチプレクス形式をとるミニシアターまで多種多様だが、そのいずれもが清潔で、座席は大きく、リクライニング。ドリンクフォルダがついている劇場もある。

 日本でもミニシアターは増加しているが、せいぜい40人、50人といった収容人数に、畳1枚大のスクリーンという、ふざけた施設もザラであり、例えば新宿のシネマカリテでは、旧作を見ることができるのだから小さいスクリーンでも仕方がないか、と始めは我慢していたが、先日『旅愁』でジョーン・フォンテーンのアップを、あんな小さな画面で見せられることに怒髪天を突いて以来、小さいスクリーンの劇場は、そこで何が上映されていようと、可能な限り敬遠することを決意してしまった。

 この映画で、ジョーン・フォンテーンのアップならず、ジョゼフ・コットンのアップが続いていたなら、スクリーンが物理的に蹴りの対象となっていたに違いない。なにしろ私は、W某という、コンピュータのオペレーション・システムが、自分の思い通りに動かないからといって、モニタへ実際に蹴りを入れた前科があるくらいだからだ。(坂本先生、その折りはたいへん失礼いたしました)

 タイでは、ミニシアターといっても、決して日本のような極小スクリーンを装備することはない。特に、リドー・プラザのマルチプレクスは、客席数300名程度ながら、収容人数と釣り合いがとれない天地6メートルクラスの大スクリーンが備えられている。これを最前列で見るのは、圧倒的だ。もちろん、1000人超クラスの大劇場は、この比ではない。

■チケット購入時には気をつけよう
 日本の映画館は現在、ほとんどが自動券売機となっている。タイはすべて窓口。といって、タイが技術的に遅れていることを意味するわけではない。タイの映画館は、全席指定の入替制。チケットを購入するときは窓口に行き、見たい映画のタイトルと時間、そして希望の席を指定することになる。

 多くの映画館では、これをコンピュータで処理しており、タイが決して技術的に劣らないというのは、この点に起因する。モニタに表示されたタイトルと時間を指で指示すると、画面が座席表に変わり、好きな座席を指差すと、係員がチケットを発行するという仕組みだ。

 こう書くと、なんて簡単でスムーズなんだ、と思われることだろう。だが、そこは相手がタイ人。いくつかの難関が待ち構えている。ほとんどの映画館では、タイ語字幕付きなのだが、稀にタイ語吹き替え版の場合がある。窓口のおばさんたちは、我々外国人に気を遣って、「タイ語だけど大丈夫ですか?」と聞いてくる。それもタイ語で。さて、どうする? タイ語の会話にある程度慣れている人でないと、これを理解するのは難しい。

 この関門を通過しても、私の場合、大きな問題が残っている。最前列の隅、というのが私の特等席なのだが、多くの人にとって、ここが最悪の席となることは、第壱篇の『燃えよドラゴン』で既に述べた。タイでは、その意識がさらに強く、そんな席はとんでもない、という意識があるようだ。おばさんたちは、これも親切からなのだが、「そんな席でいいのか?」と、またしてもタイ語で早口にまくしてたてる。

 私の意志は固く、座席ナンバーを紙に書いて説明するが、それでも納得してもらえない。いつぞやは、モニタの座席表を見ながら問答を繰り返し、モニタの向きをあまりにも頻繁に、それも激しく変えたため、モニタの足がバキッと音をたてて壊れてしまったことも……。今では、購入の際は中央あたりの席を指示しておき、実際には誰も座っていない最前列に座るという方法で事なきを得ている。

 こういった些細なトラブルは、むしろ楽しいものだが、よりスムーズに事を運びたい方は、あまり自己主張をせず、何を言われてもカオチャイ、カオチャイを連発することが無難だろう。もちろん、タイ語に堪能な方はこの限りではない。

■2月15日(月)『GORGEOUS』(ワールド・トレード・シアター1)
 ワールド・トレード・センターには、話題作、大作を上映するワールド・トレード・メジャーが8館、香港映画や、多少マイナーな作品を上映するワールド・トレード・シアターが3館入っている。合計11館! ひとつの建物に入っているため、映画館を替えて何本も見る(今では死語となってしまったかも知れない「ハシゴ」である)には、この上なく好都合だ。

 ただし、11館あるからといって、11種類の映画を見ることができるというわけではない。観客動員を見込める作品は、複数館で時間をずらしながら上映されており、11館で、せいぜい6種類も上映されていればよい方だ。

 巨大ショッピング・センター内だけに、レストランやファースト・フードなども充実していて、1日中過ごすことも可能。昨年は、このセンター内で、1日に5本を見るという、多少気狂いじみてとられるかも知れないが、無上の喜びを味わえたこともある。

 ワールド・トレード・シアターは、入場料80バーツと、通常よりさらに安い。このジャッキー・チェンの新作は、タイ語吹き替え版ということで、チケット購入時に先のようなことを言われたが、吹き替えなど、何の問題もない。これは、私がタイ語に精通しているということでは決してない。正直のところ、私はむしろタイ語に疎いのだ。

 それでは、なぜタイ語吹き替えが何の問題にもならないのか。映画とは、映画そのものが言語であり、そこに登場する人物たちが発する言葉は地方語程度の意味すらもなく、むしろ彼らの言葉で何かを理解することよりも、画面の構成物、画面の連鎖関係から、裸の映画それ自体を感じ取ることの方が遥かに巨大な悦びになるからだ。この点については、いずれもっと詳しく述べる機会が来るだろう。

 相手が振り回すバットを寸前で見切り、あるいはダッキングでかわし、バットを奪って相手にバットを突き付けて制する――こんな戦いが続出するのだから、ジャッキーのアクションは、まだまだ留まるところを知らない勢いだ。

 今回のライバルは、ジャン・クロード・ヴァン=ダムのそっくりさん。しかし、本物のヴァン=ダムよりもこっちが強い。基本的にコメディなので、多少おおげさにしたステップから、多彩なパンチとバックスピンキックを放つ。足を払う掃腿から、連続して顔面をバックスピンで狙うコンビネーションが素晴らしい。

 第一ラウンドは、このパンチと蹴りのスピードについていけなくなったジャッキー・チェンが負けてしまうのだが、対戦を拒むジャッキーに、そっくりヴァン=ダムがチーサオを仕掛け、それをジャッキーが換手でかわす味な攻防に始まり、まずはパンチンググローブのような小さなグローブを着けての闘い。そっくりヴァン=ダムのパンチがあまりに強いため、彼だけ14オンスくらいの大きなグローブに替えて再開。

 しかし、そっくりヴァン=ダムのパンチ、特にボディへのフックと掃腿バックスピンは冴えまくり、うつぶせ状態で地を這わされたジャッキー・は、そのまま立てなくなって、戦意喪失に追い込まれたのだった。

 不甲斐ない闘いに奮起したジャッキーは、猛トレーニングを開始。ロープワーク、ローラーを使っての腹筋、パンチングボール、そして木人など、トレーニング過程において、さまざまな妙技を披露する。

 クライマックスは、当然ながらそっくりヴァン=ダムとの再戦。とりあえずパンチだけでやるか、ということになるが、ジャッキーの進歩を認めたそっくりヴァン=ダムは、蹴り有りルールに変更を申し出る。最初は大グローブだったそっくりヴァン=ダムが、小さいグローブに変更させてくれ、とジャッキーに頼み、それをジャッキーが許可する、などという紳士的な展開を経て、闘いは続く。

 それでも、ジャッキーは窮地に追い込まれる。ここで、トレーニングに付き合ってくれたガールフレンドが「苦しいときには笑うのよ」と話してくれたことを思い出し、そっくりヴァン=ダムの攻撃を何度食らっても笑い続けて、ついには逆転勝利を収める、という結末。

 パンチや蹴りをもらいながら、「笑うんだ、笑うんだ」と独り言を言い続けるが、タイ語吹き替え版のため、タイ語が妙にマッチして、よけいに笑える。

 『ラッシュアワー』では、アメリカの地とアメリカ人の相棒という、水平的な拡がりを見せるに留まっていたジャッキー・チェンだが、台湾との交流という、これまた水平的な拡がりを見せつつも、アクションをより濃密なものとする垂直的な発展を成功させた本作は、ジャッキー・チェン・ワールドのより前向きな発展形として、大いに歓迎したい。

■『ミミック』(ワールド・トレード・メジャー7)
 日本で既に見ているのだが、時間がうまく合うため、構わず見てしまう。この映画に、怪物退治のプロフェッショナルは登場しない。前回見たときには、素人たちが右往左往しているところがもどかしい、という印象しかなかったのだが、今回はそこがかえって緊迫感を高める効果となり、十分に楽しめる。

■2月16日(火)『ユー・ガット・メイル』(サイアム・シアター)
 サイアム・スクエアの一角に、この大劇場が控える。傾斜の急な客席を、見下ろすような形で、巨大スクリーンが堂々と威風を放っている。日本で予告篇を見た限りでは、メグ・ライアンの仕種に不快感ばかりがつのり、絶対に見ないぞ、という気持ちになっていたが、この大画面は高さ8メートルはあって、日本のミラノ座、新宿プラザなどに引けを取らない。巨大スクリーンを見つめる、というよりスクリーンに包み込まれるような感覚は、ただそれだけでひたすら快く、映画の内容などは二の次だ。

 しかしながら、「内容」までがおもしろい。インターネットという、極時代的手段を使いながらも、基本的には男と女の微妙な距離の伸縮を描いているわけで、その話術だけで存分に楽しむことができる。特に、予告篇であれだけ気に入らなかったメグ・ライアンが、老女に「夢の相手」を語るシーンから、店じまいのディスカウント・セールを経て、トム・ハンクスの経営する大型書店フォックスの絵本売り場へ足を踏み入れるシーンに至るまでの姿は、涙なしに見ることはできない。タイに来て映画で泣いたのは初めてだ。

 「名画座最後の砦」を歌い文句にしていた大井武蔵野館がとうとう閉館となり、映画の瀕死状況はいよいよ深刻化してきた。そのような中で、新たなメディアを体内に取り込んだかに見せつつ、実は映画の話術がそのような手段を遥かに上回るということを高らかに謳っている楽天主義は、この際、許容される範囲なのかも知れない。

■『MIGHTY JOE YOUNG』(スカラ・シアター)
 スカラは、サイアム・スクエアの端。ここがまた大きい。建物は古いが、そこがかえって味わいとなっている。『猿人ジョー・ヤング』のリメイク。タイトル前に、『猿人ジョー・ヤング』を製作したRKOのマークがカラーで(!)登場するところが泣かせる。

 身長5メートルの巨大ゴリラ・ジョー・ヤングは、本物のゴリラでなく作り物なのだが、その動きは実にスムーズだ。しかも、ゴジラなどのような巨大さではなく、5メートルという大きさは、人間に接触可能なもので、遊園地に迷い込んだジョーが、射撃ゲームをしている人のすぐ後ろでそれを物珍し気に見ている、という笑いと恐怖が隣り合わせたシーンを可能にし、独特の世界を醸し出している。

2月17日(水)『I STILL KNOW WHAT YOU DID IN THE LAST SUMMER』(リドー・マルチプレクス2)

 サイアム・シアターとスカラの中間くらいにこのリドー3館がある。ポスターが5館分飾られているので、ここに5館あるのかと思ってしまいがちなので、注意が必要。ここはあくまで3館で、あとはサイアムとスカラのポスターなのだ。

 『ラストサマー』の続編にあたる本作における趣味の悪さは、前作より一段とエスカレートし、サスペンスの生じないショック演出の連続。不条理かつ意味のないこのショックは、ほとんどホラーの域に達しているといってもよく、その点では評価できるかも知れない。しかし、上映時間中のほとんどを寝て過ごせたという結果も、本作の質を物語って余りあるものだ。

■『ミミック』(ワールド・トレード・メジャー7)
 何と、また『ミミック』だ。時間が合って便利なだけに、また見ることになった。『ラストサマー』で、あれだけ寝たにもかかわらず、これは眠くならない。『ラストサマー』のダメさ加減が『ミミック』で証明されるとは。

■2月18日(木)『ジョー・ブラックをよろしく』(ワールド・トレード・メジャー5)
 今滞在の最終日。最後はこの一本。ワールド・トレード・メジャー5は、地下にあるため、探すのが難しいだろう。センターの敷地があまりに広く、地下はほとんどが駐車場スペースなので、地下へ下りる位置を間違えると、とても映画館まで辿り着けなくなってしまう。いったんセンターの外に出て、MINI PLAZAと表示のあるところからエスカレータで地下に下りれば、ワールド・トレード・メジャー5がすぐ見える。

 出演者のアップを「構図=逆構図」の切り換しショットで徹底してつないでいくところが、今日では珍しく、それだけでも貴重な作品といえる。商業的には、主演男優の世界的な人気にかこつけたものなのだが、結果的には、主演男優と女優のラブシーンよりも、女優とその父親を演じたアンソニー・ホプキンスの別れのシーンの方が格段に感動的で、ブラッド・ピットの死神はいつしか添え物くらいの存在感に縮小されてしまう。

 

 

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 特別篇02/特別篇 映画王国タイ2 

■ENTRAPMENT(SF CINEMA CITY3)
 バンコク有数のショッピングセンターであるマーブンコーン。その7階へと上がるエスカレーターに乗っていると、次第に巨大な映画のポスターが目に入ってくる。マーブンコーンのメインは2階から4階くらいであり、そのあたりの階にいるときにはあまり気づかないのだが、この7階に上がれば、SF CINEMA CITYという名の一大シネマコンプレックスが待ち構えている。

 シネマコンプレックスといっても、日本のシネマカリテみたいな、テレビ画面に毛の生えた程度のスクリーンしかないミニシアターなどとはまったく違う。大きいところでは、日比谷映画クラスの堂々たるスケールを誇る大劇場を始め、6つの劇場が入っている。

 しかも、それぞれには、ジュピターやらルナやら、惑星の名前がつけられており、内装にはそれらのイメージに合わせた複雑な装飾が凝らされている。特に、通路には細長い緑の照明が張り巡らされ、観客の誘導案内を果たす。これがまた未来的なイメージで美しい。

 日本の映画館は、機能本位というか、内装に手をかけているところはまず皆無であるが、場内の雰囲気だけでも酔える造りのSF CINEMA CITYは、上映される映画以前に、映画館そのものを楽しむことができる。

 SF CINEMA CITY3の巨大な湾曲スクリーンに映し出された映画は、『ENTRAPMENT』。ショーン・コネリーが、引退間近の大泥棒に紛し、『マスク・オブ・ゾロ』でアントニオ・バンデラスの向こうをはって剣戟を披露したキャサリン・ゼタ・ジョーンズが若きヒロインとなり、ショーン・コネリーとコンビを組んで大仕事に挑む。

 ハイテクのセキュリティシステムに対し、これまたハイテク装置を駆使して潜入を試みるわけだが、そこで重要になるのは、タイミングや体力であり、決して機械だけに頼って仕事が成立するわけではない、という点が好ましい設定だ。

 ファーストシーンでは、高層ビルの屋上から飛び降りて目的とする階の窓へと辿り着き、クライマックスでは、マレーシアの超高層ビルから脱出する際、ビルのライトアップ用ワイヤーに宙づりとなるなど、全篇にわたって高さを徹底的に追求している。

 高いところに登り、そこから落ちるか落ちないか。これが映画のサスペンスにおける基本である。サスペンスの、いや映画の神様であるアルフレッド・ヒッチコックが、宙づり状態をいかにして描くかに生涯をかけた点を思い起こしても、それは明白だ。

 高さを徹底して追求しながらも、ラストシーンでは、高さを完全に排除する。駅のホームでFBIに追い詰められたキャサリン・ゼタ・ジョーンズを逃がすために、ショーン・コネリーが大芝居を打つが、そこで決定的な役割を果たすのが列車であり、これは映画における平行移動の代表者でもある。

高さという垂直の世界から、列車の動きによる平行の世界へ。ラストシーンで、映画は急激な変貌を見せる。さらには、列車によって登場人物同士の視線が遮られ、幸福なオチへとつながっていく。列車による視線の遮断を描くとは、小津安二郎から続く映画の王道を突き進んでいるといっても過言ではない。

 ワイヤーでの宙づり、ビルからの逃亡、水中からの侵入、古城での生活……。これらのイメージが『ルパン三世 カリオストロの城』に重なるとは思えまいか。中国の仮面を盗むシーンでは、縦横に張り巡らされた赤外線の中を突破し、仮面を盗んだ跡には、猿のお面が乗せられる。こんなところを見せられると、よりルパン三世的な世界を感じずにはいられない。そう、この映画はルパン三世の実写版後日談と見なせるのだ。

アメリカでスタートして、イギリスへと移動し、クライマックスはマレーシアで展開する、いわば国際的な舞台で繰り広げられるこの映画の根底には、小津安二郎や宮崎駿といった日本の最も優れた映画作家たちの影がくっきりと落とされている。

■PSYCHO(WORLD TRADE MAJOR6)
タイでは、一本の映画が、複数の映画館で上映されるのが常である。このWORLD TRADE MAJORには、8つの劇場が入っているが、8本の映画が上映されているわけではなく、実際に上映される映画の種類は、4、5本程度に過ぎない。そんな中で、一館だけ、しかも『恋に落ちたシェイクスピア』と入れ替えという、寂しい状況で上映されていたのが、この『PSYCHO』である。

 バーナード・ハーマンの主題曲に、ソウル・バスのタイトルデザイン。オリジナル版と同じメンバーによるタイトルバックにまず驚かされる。ファーストショットは、ビル群の空撮に始まり、ビルの一つへとカメラが近づいていき、そのビルの窓へと近づき、わずかに上がったブラインドの隙間から部屋の中へと侵入し、ベッドの上のアン・ヘッシュとヴィゴ・モーテンセンのアップへと移動しながら、ここで二人が会話を交わして、ショットは終了する。

 空を飛んでいたカメラが、ビルの一室に入り込み、さらには人間のアップまでとらえてしまう。このくらいの芸当をやらなければ、『海外特派員』で、空を飛ぶ飛行機の中へワンショットでカメラを入り込ませてしまった輝かしい経歴を誇るアルフレッド・ヒッチコックに対して失礼というものだ。

 その後、不要な変更がいくつも見られるものの、オリジナル『サイコ』をほぼ忠実に再現できた点は、製作上の意図を成功させ得た結果といえる。確かに結果としては成功した。だが、それを試みる意味があったのか。そこが疑問だ。

 以前、周防正行は、『晩春』の完全リメイクが可能だと語った。もちろん、それは今日に至って実現していない。周防正行が、可能であることと、それを実現する無意味さを知ったからではないだろうか。その過ちを、今回の『PSYCHO』は犯してしまったような気がする。

 話が蛇行するようだが、『PSYCHO』という方向性が誤ったものだと指摘しているのでは決してない。純粋に映画の技術を追求する試みは、映画の核へと向かう歩みであり、そこでは嫌が応でも裸の映画自身と向かい合わざるを得ない。数多くの商業映画が、裸の映画自身を見つめることをできる限り回避しながら作られている点を考えれば、裸の映画自身と向き合う行為は、勇気と愛情なしには成し得ないことなのだ。

 裸の映画自身を見つめ、そのままの姿で人々の目にさらそうとする。この姿勢を貫いているのが、ジャン=リュック・ゴダールである。ゴダールほど誤解されがちな作家は珍しく、最近の作品については、非常に複雑なイメージで語られることが多い。しかし、ゴダールの映画ほど単純なものは稀であり、その単純さが美しさとなって輝きを放つ。

裸の映画自身を知り、このままではいけないと悟って、鏡に映った自分の貧弱な姿を変えるべく自己の改革に励んだ作家たちも存在する。テオ・アンゲロプロスやヴィクトル・エリセらがそれに当たる。これもまた美しさである。

 ゴダールを始めとする美しさを放つ作家たちを知ってしまえば、映画における醜さとは何かが、自ずと明かになるわけであり、もはやそれについて言及するような愚を犯す必要もなかろう。

■THE MATRIX(SF CINEMA CITY6)
 SF CINEMA CITY6は、ロイヤルシートである。料金は150バーツと、他の劇場より50バーツ高いが、この程度の差は気になるまい。ロイヤルシートと銘打つだけあって、椅子はゆったりしてフカフカ。最近では、肘掛けのところにドリンクフォルダーのついている劇場が増えてきたが、ここはドリンクだけでなく、ポップコーンのカップ置き場まである。

 しかし、館内は意外に狭い。特にスクリーンが小さいのは、がっかりだ。タイの映画館は、ただでさえ豪華なのだから、超豪華まで追求することはない。スクリーンの巨大さを競ってくれた方が、断然ありがたい。

 さて、THE MATRIXである。ただでさえややこしい状況設定の上に、タイ語字幕では、キアヌ・リーヴスがどうしてマトリクスの世界にいるのかさっぱり分からない。

しかし、こうした次元での「分からない」は、映画にとってあまり重要なことではない。通常はこうした奇抜な設定だけに気をとられがちで、同時にそれが売り物となってしまうのだろうが、それでは映画の外的な要素だけしか見ていないことになる。

 例えば、人がビルの屋上から隣のビルの屋上へと飛び移ること。ストーリーの設定よりも、こちらの方がはるかに重要なのだ。アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』では、この飛び移りにジェームズ・スチュアートが失敗するところから映画が始まっているではないか。

 特殊技術によって、映画におけるいくつかの夢は実現させているのだが、それと同時に人間の肉体という、映画の重要な要素の一つが、限界を露呈させていることも事実である。

その最たるものが、キアヌ・リーヴスのカンフーだ。遠間では、せっかく劈掛(ぴーこわ)の動きをしているのに、相手と近づくと、四股立ちとなって空手の突きが始まってしまう。それはないだろう。

 キアヌ・リーヴスは構えの後に、前に出した手で必ず手招きをする。最初はブルース・リーのパロディかと思うが、2回も続けられると、これはもう、演出家が手招きを構えの一部と思い込んでいるとしか思えなくなる。

 技術的にはおかしなところだらけなのだが、精神面はかなりの理解度に達している。キアヌ・リーヴスは、相手を打つことに気をとられ過ぎ、それが障害となって、有効な攻撃を出せずにいるのだが、いよいよ絶体絶命になったとき、攻撃への意識が消え去り、相手の動きに対し無意識に反応することによって、相手を倒すに至る。

 ここでパンチを出そう、蹴りを出そう、という意識から攻撃するのではなく、相手の動き、相手との間合い、両者の体勢などに即し、自然な動きで即応してこそ、初めて有効な攻撃を放つことができるのだ。これは、ブルース・リーの「考えるな!」という言葉に直結する。ブルース・リーはさらに、「私は打ち込みません。これが自然に打ち込まれるのです」という言葉でも同じことを表現している。

中国武術では、これを「化勁」と呼ぶらしい。化勁とは、日本でよく誤解されているような、形なき攻撃の意味ではない。自分で意識することなく、相手の動きに対し自然に反応して出る動きである。これは先に述べた通りのことだ。

 格闘マガジンKの編集長と中国武術のスパーリングを行う際、私が有効な攻撃を出すと、編集長から「それは太極拳の●●だ」「八卦掌そのものだ」などと言われることがよくある。中国武術の動きをほとんど知らない私が、古来から伝わる型と同じ動きをしてしまう。

 これは、中国武術の型が練りに練り上げられて作られてきた、極めて有用な技術であることの証明であると同時に、化勁とは、形なき攻撃ではなく、相手の動きに即応する、意識なき攻撃であることの証明でもある。

 自己や意識を消し去ることによって、攻撃が繰り出される。武術における精神面の正しい理解を示した本作であるが、視覚面におけるキアヌ・リーヴス動きそのものの方は、中国武術的に見ても、ただ単に映画のアクションとして見ても、カッコ悪さが歴然としている。共演の女優キャリー=アン・モスの動きの方がいいくらいだ。キアヌ・リーヴスと闘ったら、絶対に自分が勝つ! と確信できる。

 むしろ、それでよいのではないか。ただでさえ、男から見てもカッコいいキアヌ・リーヴスが、カンフーまでできてしまうのでは、もうこちらとしては立場がない。世界のトップスターに対して、絶対的な優越感を味わえる映画。それがTHE MATRIXの持つ、最大にして唯一の価値なのである。


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